鰊御殿

2021年04月06日

豪華材ふんだん 土台も全部みかげ石

花やかだった昔の夢を残す鰊御殿

 祝津の千石場所というのは、三百年も昔、徳川中期の寛文年間から知られていたそうだ。当時江州商人住吉屋西川伝右エ門が、ニシン網元となって漁を始め、アイヌと物々交換オンリーだった本道漁業の先べん(鞭)をつけた。

 本道というより小樽のニシン漁は明治から大正の半ばごろまでが最盛期で、昭和に入ってからは豊凶の波が大きく、戦後はほとんど‶幻の魚〟になり果てた。

 いんしんをきわめたニシン漁のなごりをとどめるのが、この鰊御殿。いま小樽水族館裏の山手に鎮座して観光客の目を楽しませている。

 鰊御殿は、ニシン番屋というのが正式な名前で、網元の親方の家のこと。

 祝津の鰊御殿は明治三十年から数年がかりで完成した建て物。昭和三十五年五月、道の有形文化財に指定された。道内の番屋で最も大きい代表的な漁家という事になっている。

 長さが九・八㍍ある長尺の丸太、厚さ六五㌢のハリなど、海の男の親分らしく豪華な材料をふんだんに使っている。ここに使われた材料は三千石というから、現在の百平方㍍ぐらいの住宅を三十軒も建てられるだけの材料だ。

 建て物の中央に天窓があり、これは煙突の役目。向かって左手が漁夫のたまりで、いわゆるヤン衆が百人も生活できるほどで、米つき場、台所、その上に漁夫の寝だなが三段式にしつらえていた。

 右が親方の住宅、十八畳の茶の間、帳場、酒部屋、仏間などがあり、二階は客間となり、延べ面積は約六百平方㍍という広大な建て物である。

 土台が全部みかげ石、床下の風通しの良いせいか七十年経過した現在も全然狂いがない。

 内部には往年の夢を残すニシン網、イソ船などニシン漁に使った思い出の品が陳列され、社会科の教材にも活用されている。

~小樽の建築 北海タイムス

昭和43年7月24日~8月11日連載より

~2018.10.10