エチゴ衆
2020年04月29日
〝札は離さなかった〟
階段から落ちた板谷宮吉
酒もタバコもやらない。芝居をたのしむわけではない。ただひとつの趣味は札をかぞえることだった、というのが初代板谷宮吉の伝説。
しかし人にみられては趣味にならぬ。二階に座敷牢をもうけ、深夜ここで一枚一枚、札をならべてゆく。畳ぢゅうに置きながら後ずさりしているうちにハシゴ段からころがりおちたが握った札は離さなかった。
北海道のふり出しは松前城のある福山。江戸をもしのぐ桜が咲き乱れる明治三年の春、郷里の先輩・金子元三郎(初代)をたよって越後の国からやってきた十三歳の鼻たれ小僧。
丸井今井をつくった今井藤七も、明治四年に函館にきているが、彼また越後。やはり十四歳。〝ブルーシャトウ〟などをうたっているませ方とはちがう。新潟の信濃川例年の水害は年端もいかぬ農村少年をこうして〝外地〟に輸出せざるをえない深刻無慚(ざん)なものだったのだろう。しかも千人の少年がエゾ地にわたったとしてその成功者は一人か二人か?
宮吉は、ニシン場の網元をやっていた金子のところで五年ほど働いて、小樽に転じた。明治八年である。函館が北海道第一の都市であったが、この年四月に四百三十四戸を灰にする大火を出している。いっぽう、同年福山から小樽までの電信線が架設されて、小樽の一大発展が予想されたから、宮吉は後者の道をとったのであろう。オヤ方の金子も小樽をフランチャイズにしようとしていた商人である。宮吉が住みこみ小僧に入った山ノ上町の塩越屋には金子が口をきいてくれたのかもしれない。
ついでだが全国民が苗字をつけることになったのはこの明治八年であり、火葬の禁を解かれたのもこの年、帯刀禁止令や日曜休日がきめられたのはその翌年、まだそんな時代であった。
本州から最初に北海道にくいこんだのは近江商人だが、土着しなかったので、あとから人海戦術で続々とやってきた越後商人がほぼ北海道の地元資本を形成してしまう。札幌の丸井や伊藤亀太郎(伊藤組)室蘭の栗林五朔、小樽の金子、高橋直治らである。
この高橋というのは痛快な人物で、上山キ(ジョウヤマキ)を屋号とし雑穀相場で大当たりをとり、〝小豆(アズキ)将軍〟といわれた一代の政商だが、第一次大戦で菜豆類の主産地ルーマニアなどが戦場になり、日本の雑穀輸出が急増暴騰したさい、一俵五―七円の小豆を十三万俵も買い占め、有幌や朝里に石造倉庫を用意して、ひそかにねかせ、やがて一俵十六、七円で売りまくって巨財を得た。青エンドウ輸出でもロンドン相場をゆさぶったほどだが、商人ながら羽織りハカマ、白タビで通し、小豆の俵で相撲場をつくって青年をたたかわせたり、紅灯街での豪遊も北海道一といわれた大尽ぶりであった。
雑穀以上に好きなのが政治で、区会議員から代議士をめざし、明治三十五年の第一回衆院選挙に政友会から出馬当選、四十二年はのちの小樽区長渡辺兵四郎と激戦の末敗れたが、すぐ当選無効取消訴訟を起こし、その権勢を駆って逆転勝ちするといったすさまじさ。
幼年に両親を失い、祖母にそだてられたが、勘当されて無一文同様に来樽山ノ上町で雑貨屋をはじめたのが端緒だった。小樽雑穀取引所や商工会なども生み出している。
もうジョウヤマキの語呂のひびきをなつかしむ小樽人は少なくなったが、政治に財を蕩尽(とうじん)して、むなしく病死、その息子はアメリカに留学して学者になったといわれるものの、いま高橋の栄枯を伝える小豆倉庫だけが朝里にのこっている。
宮吉も出生の年に父を失っているから同郷高橋と似た生いたちだが、宮吉の方は天下徳富蘇峰がつぎの文を書いた銅像が死後に建った。
『倹素ニ飲食ス飲酒セズ喫煙セズ観劇遊興を好マズダダダダ…』(銅像は戦中‶応召〟)
カットは阿部貞夫
さしえは伊東将夫
~北海道人国記 小樽④ 北海タイムス
昭和42年7月30日(日曜日) 奥田二郎より
そば会席 小笠原
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