戦後・小樽でつくられていたパッチ 53
2019年07月10日
いまの子供たちはファミコンで育ち、集めるミニカーや人形などをみるとその精巧さにおどろきを感じる。
明治・大正・昭和(戦中・戦後)の子供のあそび道具は、素朴な手づくりのものが多かった。集めたものは石ケリ(平らな円形ガラス)パッチ(メンコ)、カード、ビー玉、コマ、オハジキ、キューピー、着せ替え人形、グリコのオマケなどであった。
面子(メンコ)は北海道ではパッチと呼んでいたが、その歴史は古い。平安時代からあったもので、土で作った泥面子や鉛面子といい、動物や魚が描かれた小円形のものであった。
明治になってからボール紙となり、円形と四角のもの二種類あった。その後、円形だけになったが、加藤清正、八幡太郎義家など武将の絵が描かれているなど、時代によってヒーローも変遷している。
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戦後間もなく、本州の焼野原になった街に紙芝居が復活した。そんな時に大ヒットしたのが、「リンゴの唄」であった。
この唄は、GHQの検閲制度第1号の映画「そよ風」(松竹)の主題歌で、空腹と虚脱状態の世の中に、「あっ!」という間に全国に広まった。 この歌と共に、いち早く再登場したのがパッチで、当時の子供たちにとって大きななぐさめになったものである。
戦後、このパッチが小樽でつくられたという話は聞いていた。本市の北海製罐株式会社が平成3年に「70年のあゆみ」という社史を刊行したが、その中に次のような一文がある。
『昭和20年8月、終戦を迎え小樽工場は幸いなことに戦禍をまぬかれたが、国内の物資は窮乏を極め、ブリキの入荷は少なく、ミルク罐を月産3万函程度を生産するのが精いっぱいというありさまであった。
一方、インフレが昂進し従業員の生活も不安になりつつあったので、会社としては急場をしのぐため雑ブリキを集めて家庭用化粧罐や搾乳バケツを作ったり、荷り用ボール紙をプレスで打抜いて、おもちゃのパッチ(メンコ)を作ったり、印刷機でマンガ本や株券を刷ったり、さまざまな工夫をこらしてみたものの、しょせん焼石に水であった……』。
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戦後の5年間は、マンガはマンガでありさえすれば売れた時代であった。昭和21年には早くも漫画集団が発足した。
以後、宮尾しげを、清水崑、横山隆一、横山泰三、塩田英二郎、杉浦幸雄、西川辰夫、近藤日出造…更に原一司、長谷川町子、手塚治虫などにより、全盛のブームがつくられていくのである。北海製罐小樽工場で印刷されたマンガ本は、その導入役を果たしたものと評価したい。
その当時は食糧不足に加えて子供たちは、本や玩具にも飢えていた時代である。北海製罐小樽工場が急場しのぎに作ったというパッチやマンガ本は、企業採算には及ばなかったかも知れないが、ゴムマリも配給制だったこの時世に、全国の子供たちに夢と喜びを与えた功績は大きいと思う。
玩具類は、いつの間にか捨てられたり無くなってしまうものが多い。
東京の国技館横に江戸東京博物館がオープンし、今年5月にそこを訪れた。その中に、江戸時代の泥メンコと大正時代のメンコ(パッチ)や、セルロイドのキューピーさんが展示されていた。
↑↓昔から子供に親しまれていたパッチ
~HISTORY PLAZA 53
小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二
月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より
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