マチの中心が移る 繁栄の時代、公園通り賑う

2017年02月04日

IMG_2506にぎやかだった当時の花園商店街

司会~行政面で何か、こうした方がよかったとか、こうすべきであるなどといったことで一つ。

鈴木~私は小樽がせっかく隣村の町と併合したのだから、この点をいかすべきでないかと考えます。いま小樽は新産都市としての東の方面が発展の途上にある。これにたいして高島から塩谷方面の西の方はおきざりにされている感じです。これではいけないことで、とにかくあれだけの土地を併合したのだから、将来の計画をたて、悔いのない開発をしていくべきでしょう。とにかく、いまのところなにも手をつけていないのですから…。

司会~あの辺でウエイトをかけているといったら海水浴ぐらいなものではないですか。

鈴木~まあ、そんなところです。あと塩谷方面に多少の果樹があるぐらいです。いまこの地区では草地問題が出ていますが、草地地帯として力をいれていくといいですね。ある代議士にもこのことを話したのですけど、なんとしても開発していただきたいものです。

司会~この間、銭函地区でまちづくりの座談会を開いたのですがこのときは蘭島だとか、塩谷方面にウエイトをかけすぎる。銭函の方はちっともみてくれないという話がでた。もっともこれは観光を中心とした話題だったので、こういう意見が出されたのでしょうがとにかく海水浴などでも蘭島方面に力をいれすぎるというのです。これは鈴木さんの意見と逆になっているのです。まあこれはさておいて、住宅問題とか草地開発とか全般的な問題で銭函の方はどうなのですか。もっとも、一部には札幌に近いのだし、だまっていても伸びていくという人もいますが。

長嶋まあ銭函地区は伸びていくのでないですか。ただこれに伴って小樽が伸びていくかは疑問です。

司会~ところで近江さん。経済関係で問題はありませんか。 

近江~私にいわせると小樽の市中は五十年も六十年も前とちっとも変っていない。ただ奥沢の五、六丁目は小樽にこんないい町があったのかびっくりするぐらいすばらしい。それから隣の余市をみても都市計画にそった町づくりがをやっている。これに比べると小樽の中央通りはほんとにひどい。都市計画のいったらなっていないのです。一日も早く奥沢の様にしてほしいものです。

司会~ところで花園公園通りなど、昔は屋台があったりしてなかなかにぎわったそうですが。

近江~そうです。公園通りは町の中心だった。にぎわったものですよ。

司会~それは水天宮を中心としてですか。

近江~水天宮というわけではないです。公園通りの第一大通から第二大通りまで(二丁目通り)がにぎやかだった。それから奥へ行く人はなかったのですけれど。

司会~公園通りが当時そんなににぎわっていたのに、いまはさびれてしまったのは何か欠点があったのでしょうか。

鈴木~私は考えるのですけれど小樽のまあ繁華街というと稲穂町と花園町で、いま都心部になっていますね。小樽の移り変りをみますとまず稲穂町が栄えて、これが花園町に移ってきた。このときに公園通りがにぎやかだったわけです。それがまた稲穂町に移り都通りの方が盛んになってきた。こういうわけで小樽の繁華街は稲穂町と花園町を行ったりきたりしている。もっとも稲穂町にデパートなどができて多分の分はありますが。

司会~ところで当時から駅はあのままなのですが、稲穂町から花園町に花園町に繁華街が移った原因はなんでしょうか。

鈴木~その点はちょっとわかりませんが、とにかく公園通りがにぎやかだったときが小樽の一番栄えたときではなかったかと思います。

司会~話をまとめますと、小樽は勝納川付近から信香、住の江、入船、公園通りと移ったわけですね。

鈴木~まあ公園通りが一番中心だったでしょう。

長嶋~だから時代の移り変わりで町の中心も移動したわけです。

鈴木~そしていまは駅に近い都通りがよくなり、稲穂町が小樽のまあ中心ということになってきたわけです。

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~みんなで語ろう 小樽の町づくり

北海タイムス

昭和40年3月2日~3月17日 より