倉庫業界は全道一 南小樽から築港まで続く
2021年12月12日
司会~ところで倉庫関係は経済のバロメーターと言われておりますが、当時は相当ハバをきかしたと聞いております。その点いかがなものでしょう。
渡辺~まあ倉庫を経営した人たちは一番健全な歩みでした。
司会~倉庫が南小樽から築港の方までずっと続いていたということです。
鈴木~上山キ(ジョウヤマキ)、屋号)の倉庫が朝里にあって、雑穀を積んでいた。
渡辺~雑穀の買い占めをやって、それに使っていたのです。
鈴木~それより古い話だが、広海さんや大家さんの倉庫があったね。また稲積豊次郎さんが全道一の倉庫業者でした。なにしろあのころで十万平方㍍以上の広さを持つ倉庫を持っていたのですから。面積の点でも小樽は全道一だった。それだけに倉庫業はすごく発達したな。
渡辺~倉庫がたくさんあったから、あらゆる物は小樽にあつまってきたのです。たとえば農産物などですね。だから小樽に倉庫が無かったらこう集まってこなかったわけです。
近江~さきほど樺太の話がでましたね。それで金栄さんの先代(注大国屋)を思い出すのですが、いまから三十五年ほど前のことです。長万部ー輪西間の国鉄長輪線が開通したときに、『これで小樽の将来は決まった』というのです。それで『どういうわけで、そういうのです』と聞いたところ、長輪線ができて本州方面のお客は小樽を通らず、岩見沢経由で稚内へ直行してしまう。
たとえば小樽の弁当の売れ行き一つをみてもガタンと減ってしまう。小樽の将来はこれで大した期待できないというのです。当時、もちろん樺太はちゃんとあったわけ、そのときに小樽の将来をズバリ見通してしまったわけですから昔の人はえらいものだった。
それで、私は小樽の将来の見込みがないというのでしたら、あなたはどうすればいいと思いますかと逆に質問したのです。そうすると『私ならば東京の郊外に小さな呉服店を三カ所ほどつくってみる。これがそのうち売れ行きの順位がつく。その一番売れる場所に本建築の建物を建てる』というのです。いまから考えてみると、なかなかうがったことをいっているわけです。
渡辺~それを小樽でやることにして、場所を近江さんのいわれた要領で決めたわけですね。
近江~ほんとうに、先々のことをよく見越していたわけです。もっとも実際のところは小樽でやるより東京で本建築の建物を建てたかったらしいけれど。
鈴木~ですから長輪線ができて小樽へお客がこなくなった。
司会~それでは、女性の方から当時の景気のよかった思い出を話していただきましょう。
百々~ほんとうにいそがしくて、いそがしくて。昼間からお客があったものです。なにしろ六百三十人もいた芸者が皆売れて、予約でもしないとまず呼べなかったものです。病気で休んだ芸者以外は休む暇もなかったほどです。
司会~それは、雑穀屋さんとか、漁師とかに限らなかったわけですか。
百々~昼間からいそがしく、六百三十人の芸者が一人もいなくなった。お客さんたちは残っている人たちだけでもと、時間を見はからい、二、三十人の芸者さんをやっとの思いで集めて、総上げで大宴会を始めたものです。そのうちにも、ほかから、もらいがかかってくるわけです。ですからほんとに暇がなかった。いまみたいに夜一時、二時、三時、四時と真夜中の宴会がよく続いた。とくに一月は寝る暇も、髪をゆう暇もなかった。(笑い)これがずっと続いて十五日目でやっと髪をなでてもらったものです。
司会~そのころ百々さんは、おいくつでしたか(笑い)
百々~二十いくつかでしたかしら。もっといっていたかもしれません。宴会を八つ取ったことがあるのですが、朝からいそがしくてたいへんなものでした。
司会~延べ時間にしたら大したものでしたね。
百々~こちらに三十分いたかと思うと、また別のお座敷というわけで、海陽亭の中をぐるぐる回ったものです。なにしろ顔を出さないと、お客さんに悪かった。
~みんなで語ろう 小樽の町づくり
北海タイムス
昭和40年3月2日~3月17日より
~2017.2.7
そば会席 小笠原
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