第2回 開拓使と共に
2020年08月08日
♦急速な内地化が進む
江戸幕府の大政奉還から、京都政権の東京遷都に至る明治維新は、蝦夷地改め北海道にとっても、一大転換期に当たった。本州とは別の世界に暮らしていた幕藩体制下の蝦夷地の時代から、政治・経済の両面に加えて生活面からも急速な、いわゆる「内地化」が進められた。
つまり、蝦夷地という名の「異国」扱いから、東京政府直属の「開拓地」とされたわけだ。明治二年八月十五日の北海道命名は、こういった意味での「日本の本土化宣言」である。だから、各省大臣と同格の長官がいる開拓使が設けられ、なにかといえば本州とは違った、特別扱いの諸制度が実施される。
武士階級を廃止し、国民皆兵の理念から全国的に徴兵制を敷きながら、北海道だけ、その適用を除外する。まだいわゆる皇民化が進んでいないとの理由だった。学生だった夏目漱石が東京から岩内に本籍を移した理由が、徴兵逃れだといわれるのは、その一つの例になる。
♦銭函から号令
明治二年十月十二日、島判官が銭函に新設されたばかりの開拓使仮役所に着任する。長官不在のまま、ナンバー2だった島義勇は、銭函に居座って全道に号令を発する。島が赴任と同時に設置した手宮海官所は、その後小樽商業発展のきっかけをもたらした。
場所請負制度の廃止は、請負人を漁場持と名称を変えただけに止まらない。幕府自体が重農抑商政策では成り立っていかないことに気付いたのは、八代将軍吉宗による享保の改革からだろう。続く田沼意次時代の問屋・株仲間の育成強化策は、商業利益を幕府が直接握ろうと意図したものだった。
田沼は、残された処女地としての北海道に目を付けたが、時が早すぎて果たせず、開拓という名の「内国植民地化」の明治時代にその華を咲かせることになる。
場所請負制度は藩権力をバックにした請負商人が、場所内の行政権まで行使しての利潤追求の自由を保障した。こうした異常ともいえる体制が、廃藩置県を強行した本州府県並みにしようとする北海道に許せる訳がない。
♦場所請負廃止と海官所設置
松前藩に代った開拓使が発足早々に手掛けた施策は、この海官所設置と場所請負制度の廃止だった。いずれも商港小樽に深く関係した。
新しい開拓使の海官所は、箱館・寿都・幌泉と手宮の四港に設けられた。松前藩は福山・江差の両港に置いた沖口役所からの税金が収入の大半を占めていた。また維新直後で、福山・江差地方が開拓使の管轄外。松前藩改め館藩領だったという混乱期の事情も、小樽にとっては有利に動いた。
海官所が設けられることで、港の後背地からの産物送り出しが便利になる。本州だけでなく、外国との交易のチャンスも生まれる。明治政府の出先機関である札幌本府に近い、という地理的条件も手伝って、伊豆の下田とともにいち早く開港していた函館と肩を並べる商港に育ってゆく。この時期に、松前地方から小樽へ、かなりな商人たちが移っている。
海官所設置に伴い、福山と江差の問屋に対し、手宮と寿都での開業を、開拓使函館出張所が呼び掛けたら、福山の十六人、江差の十三人が全員希望したという。もちろんただで、というはずがない。問屋開業に必要な株の許可条件は、開拓使への献金五百両だったという。当時の金で五百両という大金をポンと払える大金持たちが、新興勢力の東京政府出先機関によって、小樽に引っ越してくる。
♦大金持がやってくる
小樽商人では初代名主の山田兵蔵と文治が応じ、問屋頭取に任命された村山唯五郎、桂吉左衛門らは福山の商人だった。問屋はその港に永住することが第一条件だったから、村並になったばかりの小樽へ一家挙げての移住に迫られる。いくら、商売のためとはいいながら、長年住み慣れた、歴史ある城下町からの引っ越しは大変だったろう。しかし、こうした大商人の移住が、その後の小樽のたたずまいに大きな影響を与えたことは明らかだろう。
♦北前船が支える
この時代の商港小樽は、日本海航路を走る北前船が支えた。松前藩時代の場所請負商人が、北前船のスポンサーだった。一本帆柱の和船が、風にまかせて、年に一回ずつ裏日本から瀬戸内経由で大阪まで往復航海する。開拓使が請負制度を廃止しても、本州各地との交易はこの時期まで、北前船が主役だった。
明治十年代で、二四反千石積みの帆船が一航海で行き百五十円、帰り八百五十円、合わせて千円の収益を上げ、諸雑費を引いた純益が二百八十円だったという。同時期で、東京・大阪間を年六回も往復しながら、純益が百七十円の阪神地方船主より倍近い稼ぎをしていた、との研究報告がされている(牧野隆信「北前船」)。
幕藩期の安政四年の海産物移出先状況(表参照)を見ると、加賀・越中・越前・能登向けといった、西回りの船荷が南部・仙台・江戸への東回りの二倍半に及ぶ。さらに西回りの終点、大阪や兵庫は途中の加賀・越前の三倍に達している。
♦典型的な植民地救済。
明治八年、本州への移出は二四八万円で移入が一九五万円。それが十四年になると、移出七〇四万円、移入一二三二万円、と膨れ上がる。実に五二八万円の移入超過になった。その内訳をみると、移出の八八%が水産物、、移入は繊維・雑貨・酒といった日用品が六三%、米などの農産物が三〇%、原料輸出・製品輸入、しかも金額面から著しい輸入超過という典型的な植民地経済になっている。また、こうした移出・移入品目が、小樽商人の主要取扱品目と一致していることは、当時の小樽が置かれていた状況からも当然といえよう。
開拓使は明治十五年に「使命を果たした」と称して無くなる。このころ、政府の殖産興業政策なるものが背景にあって、北前船は最盛期を迎えていた。
北前船が結んでいた本州は、太平洋沿いではなく、日本海経由の裏日本だったということが、戦後の地盤沈下と関係してくる。小樽の街が形成され、そこに働く商人たちの仕事場が広がってくれば、次はお互いの利益を図るための会議所が生まれることになる。
~会議所の百年・小樽商人の軌跡
小樽商工会議所百年史執筆者
本多 貢
そば会席 小笠原
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