踏み切り

2016年11月19日

東急の〝連携〟を拒否

松川 中央バスの躍進実現

 踏み切りのマチ。小樽市内にそれが百十五もあったという。

 本道最古の手宮線開通につぐ函館鉄道の全通は明治三十七年十月十五日だが、鉄道高架化のユメはこのころから描かれていた。それが一日百三十本からの列車が通り、毎日二万台の自動車と三万人の歩行者がイライラ待たされる時代になって、市民の悲願がやっとはたされる。

 高架化は、三十六年八月着工。六億五千万円の工費は国鉄、開発局、小樽市と民間(一億二千万円)が負担し、一一〇〇㍍が完成。三十九年九月二十七日の初運行列車に乗った高架化期成会会長松川嘉太郎氏は『車窓から町並みを見おろしたとき、踏み切り解消という長い小樽の悲願をふりかえって万感胸にせまった』とある。

 つぎは札樽第二国道の建設で、これも目の黒いうちにぜひやりたいと張り切る。この方も期成会長。

 松川が小樽へきたのは明治四十年で、小樽樺太間の定期航路が開設されたころ。しかしすぐ体をこわし、ふたたびやってきたのが四十二年のくれである。

 小樽は父の仁平が目をつけ、義弟の宮本太吉を色内町に派遣し、砂糖、ショウユなどの店を出させていたものでこれが三十二年だから、小樽が国際貿易港に指定された年である。仁平は福井県三国町で砂糖などの問屋をいとなみ、三菱の船で日本海沿岸や北海道に販路をひろげていた。松川はこの稼業を手つだったのだが、小樽の店が不振なので再来樽のときは回船と縁をきって、砂糖と小麦粉の卸問屋として再出発をこころみた。

 小樽の発展期なのでこれは当たり、四十五年には小樽砂糖雑貨組合の副会長までになった。二十二歳である。ついで組合長。そして商工会のボスとなっていくのだが、会議所や市会でいっしょに苦労し、兄弟づきあいをしていた中央バス社長杉江仙次郎の訪問をうけて『相談役になってくれ』とたのまれたのが昭和二十八年秋で、経営難を知っているから適当にウンウンいっていると十二月に杉江危篤の電話がはいった。やっとこんすいからさめた杉江は『私に万一のことがあったらバスの社長を…』とあえぎあえぎいう。危篤の親友だから『わかった』というよりない。本当はひきうける気はなかった。

 杉江が死んで二十九年一月、社長に押されて帳簿をみるとたいへんだった。三十万円の資本金で二億七千万円の借り入れ金があり、一億七千万円は年末返済だ。そこで拓銀は松川ならバックアップするという話だったから五千万円を借りて債権者にかえし、その年半額増資、よくねん倍額増資できりぬける一方、新車をどしどし買って乗心地をよくし、路線を全部あるいてみて運航のムダをはぶき、経営はむろん合理化。さらに就任前に大争議があったので、労使折衝にはみずから当って人間のきづなをつくった。

 二年ほどで負債をかえし、つぎに躍進体制である。中央バスは戦中の統合で道内十八の旅客運輸会社が一本になったのだから、統合前の各社の路線をあつめれば全道を網羅できるはずだし、交通需要はのびる一方だから松川方式でいけば文句はなかった。

 この立直りをまっていたかのような五島慶太がチョッカイをかけてきたのが昭和三十二年夏で、先ず南条徳男代議士と柴野安三郎北交社長それに北日本航空山田良秀らが『東急側の代表として北日本の会長を』という話をもってきたという。結局、松川は東京の料亭で五島、小佐野賢治と飲むが、話がちがってきたので、ことわる。三十三年夏になると当時の札証理事長寿原外吉と道商工部長高岡文夫が『東急が提携しないと株を買収するといっているが』という話。十月、俄然、東急の買いあつめがはじまって戦闘開始。双方で買うから七、八十円の株が二百七十円までハネあがる。このとき『松川がやっているうちは千円になっても売らん』という地元株主の結束と小佐野を制して乗り出した北炭萩原吉太郎、松川の向う意気、これが踏み切りをこえた。松川は三十七年藍綬褒章、四十年勲四等。杉江のむすこ杉江猛は中央バス専務。

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カット 阿部貞夫

さしえ 伊東将矢

~北海道人国記 小樽編 奥田二郎

北海タイムス 昭和42年8月29日(火曜日)より