ヘビー級

2016年11月18日

道経済界のリングに

松川 魅力ある硬骨の明治人

 すいと出てきた政界二枚目の箕輪登だが、一度出馬を故椎熊三郎のために断念している。

 あきらめさせたのは松川嘉太郎と椎熊の大番頭辻喜四郎だといわれているが、箕輪はこのとき「次回はわたし一本に」の約束をとりつけたそうだ。ことし一月の総選挙は箕輪が公認され椎熊二代目が党籍証明におわったが、これは〝箕輪派〟佐藤栄作と〝椎熊派〟藤山愛一郎の電圧の差をしめすものであったろう。しかし松川は辻にこの約束を厳重にまもらせ、辻もまた、この二人に寿原正一を加えた乱立が自民党支部に与える影響を考えて、松川の方針にしたがった。

 松川はかくて箕輪の後援会長としてまつろわぬものどもをバッタバッタと斬り捨てることになるが、これにより椎熊派は風声鶴唳(れい)におびえるごとく浮足たってしまった。実力者辻が箕輪派に転向すれば、故三郎譜代の臣高橋源次郎道議も同一コースをたどる。旗色鮮明をきらう山元ミヨ道議も箕輪陣にはせ参じる。かくなる上は、というわけで椎熊派市議八人は〝自民城〟を脱走して小樽戦陣に椎熊御曹司と枕をならべて討ち死に。

 これで血風おさまるとみれば、さにあらずで、松川大老、寸毫(ごう)の容赦(しゃ)もなく椎熊・寿原陣についた商工業界人らの中央バス出入り禁止、取り引き停止の断を下したと一部のマスコミはつたえている。

 真偽はともあれ、こうした松川の小樽における膨張係数のデカさには一驚させられる。彼の周囲には旗本・直参陪審たちがうじゃうじゃと集まり、一大磁場を形成、みずからも家父長意識に燃えていたようである。

 カミナリ親爺ともいわれる。吹けば飛ぶような小兵、白髪、七十七歳の彼が発する高いボルテージの秘密はいったいなんであろう。

 まず〝松川宗総本山〟中央バスの業績だが、四十一年度の道内法人所得では十二位(四五四、二五二千円)を占めバス路線免許キロ数は小樽五一九㌔、札幌六七八㌔など計二一八〇㌔、配車数は道内七〇四両、従業員三千三百余人。むろん道内一で、これは植民地を失った〝午後三時の王国〟小樽の奇跡である。すべて松川が自前で仕上げたものだ。また発展する中央バスの〝足〟が札樽経済圏の形成に大いに役立っているし、彼自体、HBCや札幌テレビ等の重役をかね、道開発審議会委員でもある。いわば斜陽小樽が北海道道経済界のリングに立たせたヘビー級選手。

 つぎに松川は、大正十四年から商工会議所議員、戦後に会頭もつとめ、市議も大正十五年から長期にわたって当選という地元の巨頭だったということ。とくに小樽が全盛をきわめていた昭和初期に会議所の副会頭として活躍しているから、商都発展の功労者である。

 それに歯に衣をきせぬズバリ発言、明治人のサンプルのような硬骨、さらに小樽をかわいがる情誼といった人間的な魅力。

 『中央バスが今日あるのはすべて小樽市民のおかげです。いくら斜陽都市だからといっても本社を札幌へうつすなど忘恩の徒にはなりたくない…』

 昭和四十一年くれ、札幌市北一東一に完成した中央バスターミナルの開館披露のさい、札幌人のヒヤカシにこたえて松川は憤然とのべている。

 このセンターの入店者に対しては家賃一年間すえ置きを逆に申し入れるといった札幌経済界がビックリするような共存主義を発揮して、店子を感激させている。むろん先の読みがあってのことだろうが、小樽の大老たるゆえんはこのあたりにもひそんでいるのであろう。

 勉強もするようだ。最初小樽にきて砂糖の卸し売りや豆相場をやったころは 

 『毎朝かかさず新聞のすみからすみまで読んで勉強した。わたしの先生は新聞だった』そうだが、商機をつかむ手ぢかな勉強とともに、政治を知り、社会に広く眼を走らせたのであろう。彼もまた政経癒着の典型的な小樽人である。

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カット 阿部貞夫

さしえ 伊東将矢

~北海道人国記 小樽編 奥田二郎

(北海タイムス 昭和42年7月27日~9月15日連載)より