ニシン漁家列伝 小樽関係抜粋 小樽内場所①
2020年04月29日
小樽は古くは「オタルナイ場所」といわれた。場所の範囲はオコバチ川を境として、それから北は高島場所で、それから東を「オタルナイ」といった。地名の起りは、当時小樽郡と石狩郡の境の「オタナイ」に住んでゐたアイヌをクッタルウシ(今の入舟町)に移住させ漁場で働かせたことに始まり、出身地の「オタナイ」から「オタルナイ」と呼び、後に「小樽」に転じたとされている。
慶長年間(一五九六~一六一五)に福山の八木勘右衛門が漁業を行ったといわれているが、詳らかではない。
寛政五年(一七九三)に追鰊先は石狩まで拡げられ、請負人も大規模に漁業を行うようになるが、アイヌの人口は、文化三年(一八〇六)の二一八人、安政元年(一八五四)の一一二六人を頂点として急激に減少し、明治三十年には一人もいなくなった。一方、天保の飢きん以来、二八取りの出稼人は増えたが、神威岬を境として、奥地には女人の往来が禁じられていたので、定住者は少なかった。
天保一一年(一八四〇)には追鰊先は、さらに拡げられて鬼鹿に達した。幕府の直轄となった安政二年(一八五五)に神威岬の禁制が解かれてからは、漁業者は妻子を伴ってこの地に定住しはじめた。「アットマリ」(平磯岬の下、小樽築港駅あたり)には漁舎が軒をつらね、勝納(かつない)川の沖には、四、五月になると、弁財船がひしめきあい、「コンタン町」を中心に貸座敷や料飲店が繁昌していた。それは明治一四年に大火で焼けるまで続いた。(越崎)
「オタルナイ場所」の請負は、近江商人岡田家の四代目弥三右衛門玄正(宝永七年ー一七一〇)の頃といわれている。岡田家の請負は慶応年鑑まで続き、その間に、ノブカ、アットマリ、クマウシ、アサリ、ハリウシの漁場を開いている。
慶応元年(一八六五)にオタルナイは村並となり請負は廃され、前後一七〇年に及ぶ恵比須屋岡田家の請負の時代は終った。これによって、岡田家は経済的に大打撃を蒙った。翌慶応三年には古平場所の請負を種田徳之丞外に譲渡し、福山支店も閉鎖に追いこまれている。
「小樽内場所」の運上金は、
文政年間(一八一八~二九) 恵比須屋佐兵衛 三七〇両
嘉永・安政年間(一八四五~五九)岡田忠兵衛 三七〇両
慶応年間(一八六五~六七) 御料村並 運上金なし
恵比須屋岡田家の運上屋は、今の港町郵便局の所にあり、十数棟の倉庫が、アットマリのあたりには漁舎が立ち並んでいたという。
小樽港の防波堤は、明治三三年(一九〇〇)に着工し、四一年(一九〇八)に工を了えている。このため、港内沿岸の漁業権はすべて放棄。防波堤上に基標を置く鰊定置漁業権五ケ統を残すだけとなった。
「小樽内場所」の漁況の移り変りを見ると、安政三年~元治元年(一八五六~六四)の間は比較的安定している。明治二十年以降では、最盛期は、明治二〇~二九)の間で、年平均漁獲量四万二千石、最大漁獲量は大正十四年の七万五千石であった。昭和期に入ると漁況は不安定となり、昭和五、一〇、一一年の如きは漁獲皆無に了り、昭和十三年以降は、鰊漁業地としての価値を失っている。
「小樽内場所」の著名な漁業家として「北海道立志編」(明治三六年刊)などに、渡辺兵四郎、藤山要吉、奥村伊兵衛、木村円吉、田中武佐衛門などの名がが見えるが、何れも小樽を本拠に、浜益以北の奥場所に進出して大を成した大漁業家で、別項に記した。小樽住之江町の斎藤平吉は、朝里村で鰊定置一二ヶ統を経営していた。
昭和六年の小樽・朝里の鰊定置漁業権数は六一統、漁業家数は三三人、詳細を「附表3」に示した。
~2017.1.3~
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