蓄音機時代の小樽そのところとこころ 2

2016年09月27日

 戦前、小樽新聞社は「オールトピックス」という雑誌を出していた。評論や小説の他に、郷土に関する文化など幅広い情報を提供した本であった。

 その中に「ミス・ミセス北海道・樺太」という2頁にわたるコーナーがあり、毎号写真で美人を紹介していた。美人とか同じ意味でシャンな女、その逆のブスということばの表現は変ってきたが、ホステスさんもその頃は女給さんとか、嬢(じょう)でなくてもパートナー嬢と呼ばれていた。

 この雑誌の人気美人コーナーには、かならず小樽の女性が複数で上位を占めていた。中でも桟橋という店のホステスさんが多かったことを私は子ども心で記憶していた。

 この桟橋というカフェーは、小樽駅から港に下り色内大通りに接する所にあり、美人画大勢いたことで有名だ。私の知り合いのお母さんがその頃この店で人気の高かった人だと聞いたことがあるが、娘さんの容ぼうをみて本当だと思ったことがある。今その娘さんは東京でクラブのママをしている。

 この桟橋という店にいたホステスさんの一人が洋画のモデルになって制作された作品がある。その作品は今でも高く評価されているが、エピソードの一つとして紹介したい。

 「けむり」という絵で、その画家は郷土小樽が誇る洋画界の重鎮といわれた一水会運営委員、日展参事の中村善策(明治34年~昭和58年)である。

 先生の戦前の作品は、東京空襲で殆ど焼失しているが、この「けむり」という作品はそれだけでも貴重なものである。東京のアトリエを訪れると、先生は小樽がなつかしいのかいつも「ゆっくりしていきなさいよ」と言っていろいろな話をしてくれた。その折のある日、私はこの「けむり」について聞いたことがある。「先生あの作品に描かれたきれいなうしろ姿のモデルはどんな人ですか」と素人(しろうと)だから聞けることを口にしてみた。「あれは小樽の桟橋という店にいた女給さんだったよ……」、にこにことワイングラスを片手に話してくれたことは次のようなものだった。

 若いこの娘をモデルにしたいと思い本人にお願いすると、心よく受けてくれた気のやさしい人であった。ある日、そのモデルを連れて港に行った。キャンパスを立ててモデルを前横に向ってもらったとき先生はハッとした。その娘は妊娠していたのである。写真と異なり絵だからお腹をひっこめて描くことはできると思うが、気もちの上で前向き姿を描くことができず、それでうしろを向いてもらったという。

 作品は、港から手宮の方を描いているが、小さな船からけむりがゆらゆら舞い上っている。娘は左手をほほにあてるようにしてそのけむりを見つめている構図であるが、作者もモデルもこのけむりに何を想っていただろうか。そのけむりの筆致は実にいい。

 この作品は昭和12年開かれた一水会第1回展に出品した80号の油彩で、現在は札幌のH銀行が所有している。

 桟橋という店の他にも美人がいた多くの店があった。小樽駅下(現在のグリーンホテル角)に北海ホテルがあり、その中にカフェー・モンパリがあった。『我等の若い魂と情を育くむ青春華苑モンパリあるを…』というこの店には、その頃小唄太郎や作家の村松梢風などが容姿をほめる一文も寄せたくらい美人画この小樽には揃っていた。

 大正時代はどうだったのか。その頃は同じ店でビアホールともカフェー、バーとも言っていたが、大正10年を例にとると、蛇の目、クリンクレート、ノーザン、小嶋、助六、米久、住吉、公園、敷島、高橋、山一、三ツ輪、成金、成美、伊藤、楽天、加賀屋、翁軒など小樽には78軒の店があった。そのあと昭和初期になると、とても列記できないが、パラダイス、スモール、Q(きゅう)、ルビー、三月(みかづき)、夕暮れ、いく代、イトー、清亀、マル、三の糸、キリン、秋田屋、パノン、フジヤ、コガネ、メルボン、自養軒…など店の名前をみるだけでなつかしく思う人が多くいるだろう。

 そこにはそれぞれが通い続けた理由(わけ)のある人がいたかも知れない。秘めたるロマンはいま箱の中か。

 一流の料亭や芸者さんの記録は本にもなっているので郷土資料の一つとして残っていくが、忘れられる支流の中にも何か小樽が示す歴史の一面があるような気がする。

 昭和初期に女優岡田嘉子が小樽の自養軒で仲間やホステスさんと並んで撮った写真を見たことがあるが、当時この店は富岡町にあったことなど、私にはまだ知っておきたいことが多くある。

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~NEW HISTORY PLAZA ②

小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より