『涙の渡り鳥ー小樽出身歌手 小林千代子ー』 18
2021年03月29日
雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くのじゃないよ
泣けば翼も ままならぬ
あの夢もこの夢も みんなちりぢり
わたしゃ涙の 旅の取鳥
泣くのじゃないよ 泣くのじゃないよ
泣い昨日が 来るじゃなし
この歌は昭和7年、大ヒットした流行歌「涙の渡り鳥」で作詞が西条八十、作曲はこの曲でデビューした佐々木俊一。レコードを吹き込んだ歌手は小樽出身の小林千代子である。
レコードによる流行歌の普及は、この年を中心として上昇の一路をたどったが、「音盤歌謡史」によると『‶涙の渡り鳥〟は、レコード界はじまって以来のヒットを放った』と記してある。
小林千代子の生年月日は、大百科や年鑑には明治43年生まれとあるが、文化人名簿には大正2年と書いてある。
本市の稲穂町(現在の稲穂4丁目1番)で生まれ、色内小学校に通った。私もこの学校の卒業であるが、音楽室には立派なグランドピアノがあった。「このピアノは、本校出身の先輩、小林千代子さんから贈られたものです。」と校長先生からいわれたことを記憶している。
彼女が小学3年のとき、オペラの三浦環と運命的な出合いにより、声楽家としての方向が決まったという。 昭和2年に庁立小樽高等女学校を卒業。さらに東洋音楽学校に進学している。本来はクラシック界の人である。昭和7年第一回時事新報音楽コンクール(現、毎日新聞社主催)に入選。松竹歌劇団(SKD)などにも出演している。
昭和6年にアメリカの例にならって、黄金仮面をつけて「アリランの唄」を歌ってレコード界にデビュー、我が国の覆面歌手第1号として話題になった。
そのころ、映画もトーキーになり、歌と映画の結びつきも一段と強まった。「涙の渡り鳥」も昭和8年に松竹で映画化し、竹内良一、岡譲二、坪内美子、沢蘭子、水久保澄子が出演している。
小林千代子はビクターから「涙の渡り鳥」を含めて300曲。ポリドールからは「旅のつばくろ」ほか19曲のレコードが発売され、流行歌の黄金時代を築きあげた第一人者となったのである。
また、シャンソンレコードとして売り出した第一号は淡谷のり子の「暗い日曜日」(昭和11年)だといわれているが、小林千代子も「人の気も知らないで」(昭和13年)をレコード化している。
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昭和21年に亡くなった恩師の三浦環から生前「あなたは流行歌手ではないのですよ」と言われ、昭和23年に小林千代子を小林伸江と改名し、オペラに復帰した。
そして「蝶々夫人」の上演28回。また彼女は昭和27年、三浦環のために「三浦環顕彰会」を設立して理事長を務めた。師の墓碑や、長崎のグラバー邸に「蝶々さん」の立像と作曲者プッチニーのレリーフを寄贈する業績も残した。
マリヤ・カラスの日本初公演の実現を果たしたのも小林伸江である。その北海道公演は札幌厚生年金会館で催された。私もこのオペラに招待を受けて出かけた。
おどろいたことは、会場入口で小林伸江自身が「ようこそ、いらっしゃいました」とお客を出迎えていたことである。小樽出身だけあって知り合いも多くいたからだと思うが、表情は明るかったし、舞台でのあいさつも親しみを感じた。
小林伸江は惜しくも、昭和51年に亡くなった。思えば戦前は歌謡界、戦後はオペラ界で活躍。世界のオペラ歌手への登竜門といわれた「マダム・バタフライ世界コンクール」を、昭和42年の第1回から4回までを日本で開催し、国際的にも高い評価を受けた人でもあった。
現在は、歌手と音楽指導者として活躍している岡本敦郎も小樽出身であるが本誌の5・6月号で紹介したナンシー梅木と共に、小林千代子も郷土史に残していきたい一人だと思う。
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~HISTORY PLAZA 18
小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二
月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より
稲穂4丁目は龍宮神社から港へ向かう道路左にあります
この辺りが
今年
創立110周年
今年も
開催されます
そば会席 小笠原
北海道小樽市桜2丁目17-4電話:0134-26-6471, 090-5959-6100
FAX:電話番号と同じ
E-mail:qqhx3xq9k@circus.ocn.ne.jp
営業時間:10:30~21:30
定休日:月曜日