むかしの住吉祭

2016年07月16日

IMG_0139おたるむかしむかし 下巻

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より

 明治以前現在の海陽亭のところ、即ち石狩湾から対岸浜益厚田さては雄冬岬が一望のもとに見渡せる景勝の地に弁天社があった。ところが元治元年(一八六四)箱館八幡宮神官菊地重賢がオタルナイ総鎮守として住吉大神を勧請すること願出て許され、今の入船川下の辺に埋立を行い社地を造成することとした。このため入港の諸船はその都度テンマ(小舟)を出して土砂又は赤岩附近から丸石を運ばされ、漸く水際まで埋立てたが御維新の改革となり遂に半途で中止するやむなきに至った。 

 ご神体は社人加藤豊章に護られて明治元年八月到着し一応山ノ上町の弁天社即ち厳島神社々殿内に仮安置された。住吉神が鎮座されてから弁天社の称が廃せられ墨江社と呼ばれるようになった。

 明治二年蝦夷は北海道となりオタルナイは小樽となった。

 明治四年に墨江社は山ノ上から量徳町二八番地(現在の量徳小学校附近)に移りこのころから社名も住吉社又は住吉神社と称せられるようになったらしい。十四年五月の信香大火直後量徳町道路改正で社地の中央部に改正道路が設けらるるようになったので十二月量徳町五三番地の現在地へ移転することとなった。 この移転の前年の住吉神社祭典の模様を札幌新聞(十三・七・一四)によってお伝えしよう。 

 住吉社の祭礼は毎年六月三十日が例祭であったがこの年(十三年)は新たに鰊漁の契機がよろしく初揚げがおくれたので七月十日に延びた。然し市民は大漁景気で張切りお祭りを盛大にやろうと花車手踊りの仕組がほぼ出来上ったが郡役所から道路を曳き廻ること相成らぬ(註、交通妨害のためというのであろうかとお触れで市民もガッカリしたが御評議の結果市民さほどまで熱心ならば自由にせよということになり、市民は俄かに大黒様の質流れの如くニコニコしたという。

 その賑わいは一方ならず山ノ上町と色内町より出た花車は或は大黒の像を造り、或は恵比須が鯛を抱えてよい値段がついたら売渡さんという有様で側に算盤を置き大福帳に記すところなど仲々よく出来ていた。

 噺方舞子などは単衣で男女二百三十人集まって車の綱を引き、又貸座敷中より出た舞台の上には猩々が酒に戯るる体を飾り数多の芸妓がケンを競い天女空より落ちたらんと怪まるる中にもソメ、チヨ、テツの三女の如きは衆人恍惚として口をあかしめた。(註、この頃は勝納方面コンタン町が花街の中心全盛時代であった。)

 堺町港町沖の蒸気船は日章旗と船旗をひるがえし、左右舷に砲門を飾っているのは軍艦で中よりラッパの声が応じた。神輿の後には実子網小舌網簾などの漁具でつくった旗を立て烏帽子重衣でうやいやしく守護した。市街は家毎に日章旗をかかげて夜に入り献灯数千が照らし恰も不夜城のごとく未曽有の賑いだった。

 

IMG_0298エンヤさー

IMG_0299エイさー

 

IMG_0277この広場のすぐ左側が

IMG_0294コンタン町でした