丸井さん

2016年07月13日

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丸井今井百貨店の店祖今井藤七翁が弱冠二十三歳で越後三条を出て渡道し同郷の高井平吉と共同で翌明治五年五月一日札幌渡島通り(今の南一条西一丁目)創成川畔にささやかに開業したのが今日「丸井さん」の愛称で呼ばれる丸井今井誕生の第一声であった。

 七年藤七郎は期するところあり高井と別れて独立し、西側胆振通りに丸井今井呉服店の暖簾を揚げて開店した。開拓使の札幌本府経営も漸次緒につき官舎住宅工場の建築、屯田兵の入地開墾などにより戸数人口増え商況も活発になるにつれ丸井今井も繁昌し弟良七も来札してこれを手伝うようになった。

 藤七翁は小樽港の発展と将来に着目し二十四年次弟武七のために色内町に小樽支店を開設した。二十六年不幸にして類焼の厄に遭ったが、秋に復興再開した。この年に出版された「小樽港実地明細絵図」の今井支店営業品目は「呉服太物西洋織物、肩掛蔦合羽諸仕立物糸組物、糸組物綿帽子、靴」と見えている。

 三十七年五月八日恰も遼陽陥落の祝賀提灯行列の行われた夜、稲穂町取引所附近(現産業会館の辺)から出火し西南西の強風にあおられて二十七時間燃え続き第一火防線以北の稲穂町色内町の大部分二千四百余戸が灰燼に帰した。実に小樽最大の火災であった。然しこの火事で丸井は裏の蔵の一部は類焼したが表通り石造店舗は厄を免れたという。すなはち現在の港運作業会社の建物がそれで大正末稲穂町八丁目に鉄筋コンクリート四階建を新築して移るまで営業していた。四十一年には洋物を分離して向かい側に洋物店を独立させた。

 そのころは色内町通りは丸井今井の外に勧工場やら有力小売店櫛比し港出入の船客やら一般客の往来もはげしく最も賑かな繁華街だった。丸井今井はその王座を占め、座売りではあったが百貨店の実質を備え、常に流行を鑑み顧客の嗜好に留意し洋服の如きも欧米各地のスタイルを徴し、洋服も最近の流行を追い、大売出しには夜間煌々とイルミネーションの点滅を以て外容を飾るなど道行く人々を堂目させた。

 店に入ると一部は土間で貴金属小間物類はガラスケースに陳列されていたが呉服部は畳敷きで角帯占めた番頭さんたちが丸火鉢に手をかざし椅子に腰かけたお客と相対し、客の希望の品は「〇〇ど~ん」と長く尾を引いて丁稚の名を呼び奥の蔵から運ばせた。階上は陳列場でもの織物類が立て掛けられ客に自由に展覧せしむるようになっていた。

 何といっても一番賑わったのは正月の初売りだった。まだレジャーの少ないそのころは若干の小遣いをためて初売ぼ買いものをするのが若い人たちの楽しみであった。特に宝箱と称せられた詰合せの特価品に人気があり正月二日の暁暗い内から開店を待ちあぐんだ桃割れの娘さんたちやマント二重廻し姿のお客さんが殺到した。 

 僕も少年のころその中の一人であったが友だちと意気揚々と宝箱を脇に抱えて帰ってきてお互いに何が入っているか開き合って見比べるのが楽しみだった。

 丸井さんが稲穂町に移ってからは色内は火の消えたように淋しくなったが純然たる問屋街に移行していった。丸井の跡には傍系の卸部藤武良商店が入ったが第二次大戦中に店を閉じ、奥の木造建物の一部を戦時中我々有志が食糧増産の目的で永橋に設立した養豚会社の豚舎に譲りうけた。

 石造建て店舗には市内艀業者が合同した港運作業会社が入って今日に及んでいるが、昔の老舗を偲ぶ重厚な落ち着きある建物で袖壁の瓦には今なお丸井のマークが残っている。

 現在の丸井デパート応接室に丸井マークの鬼瓦が飾られているが裏面には「明治二十七年五月若狭瓦師古谷新太郎」の名が刻み込んである。

~おたるむかしむかし 下巻 月刊おたる

越崎 宗一

昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より

 

IMG_0045色内町にあった丸井今井

IMG_0046同陳列場

その向かいにあったのが、

IMG_0038株式會社二十銀行小樽支店→昭和初期には丸井今井洋物店の店舗になる

IMG_0057小樽 色内町十字街

~写真は東宮殿下行幸記念北海道写真帖 小樽関係抜粋 明治44年発行より