をたる開拓のうら・おもて 山谷敏行翁
2020年05月22日
山谷敏行翁(一)
能島別莊の上の高臺で古代文字の山谷さんといへば、あ、あの人かと誰もが知つてゐるほど翁と古代文字とは不可分の關係にあるし、また古代文字の紹介にこれほど力を盡してゐる人はあるまい。
♢俳諧もやるこの頃少し道樂が殖えて手宮の沿革調査にあと僅で七十四になる老體をでありながら浮身をやつしてゐる。
翁は小樽に來てから四十年になるその間手宮を動かぬといふから手宮のことには明るい。その明るいのには理由もある。
手宮の
♢…代表として市會に送られたり遊郭、停車場、道路等の新設その他手宮の仕事に手を染めてゐないものはないといつてよい位であるからである。
だから四十年前からの手宮のことなら大抵のことは解つてゐる。
既に手宮の沿革については小樽郷土研究會において講演されたものを手宮の懐古と題して謄写版刷りてはあるけれども印刷して同會から發表された。
翁は數日前筆者を呼んで改めて手宮の沿革について話をされた。
筆者は手宮驛をちゅうしんとしての沿革と明治大帝の御聖蹟に關する調査の結果をまとめられるかと危ふまれながらも目下順調に進んでゐる。それで驛のことは翁の話だけにとどめることとして前述の小樽の懐古と重複する嫌ひがあるかも知れぬが筆者はその印刷物は全然拜見してゐないから新しく筆を起したことのこの二つだけは茲に斷わつておく。
明治二十九年の春翁は
♢…小樽にやつて來たそして誰もがやるように小樽の街なかをあちこち眺めて歩いた。
そのとき目に觸れた街の姿をここに點描してみよう。
戸數が確か六千戸と聞いた人口は多くて三万……或はもつと少なかつたかも知れないが、その頃の小樽は精々そんなものであつた。
これを小樽外七郡々役所があつて小樽の總代人會といふ諮問機關をおいて統制してゐた。
双葉女學校のところにその郡役所があつた。粗末な木造の二階建で郡長金田吉郎がそのなかから號令してゐた。
總代人會はその數七八人から成つて何れも記名投票によつて選出された。その投票數も僅五票か七票あればよかつた。金子元三郎翁や寺田省帰翁などの諸先輩連がその任にあたつたといふことである。
尤も小樽の政治熱のだい頭とその沿革については其の契機を作つた埋立問題以來最も深くこれに干與したゐた盬野翁が筆者に對して數十回に亘り談話せられて記録を取つてありかつ得難き資料を豊富に提供され興味深々たるものがあるから山谷翁の話が終ると夏期は自ネルつもりであるからこれも深く觸れない。
小樽毎日新聞
昭和十年十二月十八日より
『以後、十二月廿五日まで七回にわたり 山谷敏行翁の話が連載されていました。』
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