入船川口か勝納川口か小樽発展のモトは?
2016年03月16日
「テミヤ、ここは高島より旅立つ人をおくるところ。テミヤの番人のメカケに高尾という美女あり」
文化五年(一八〇八)、つまり間宮林蔵がカラフト探検を敢行し、会津、津軽両藩がエゾ守備を命ぜられた年で、幕府旗本の砲術家、井上貫流一行も高島守備に当った。そのとき斉藤治左衛門というお役目付が高島日記なる狂歌入りの一冊をのこしているが、その中の高尾
メノコで髪はくしゃくしゃ、着ているアッシにアカがこびりついている。高尾とい吉原妓楼のような名は和人がたわむれにつけたものと書き、それにしてもアイヌ民族の情誼の厚さは、わずかな酒でもあれば一人で娯しむことをせず、友人みなあつめてこれを分け合う、そして、テミヤけや足らぬ新酒を一ツづつ、(手宮と手みやげをかけたもの)とか、狂歌でもオタルナイと酒樽をかけて、酒もありサカナは鮭のありながら
たったひとつのお樽ないとは
とうたっている。
寛政十年(一七九八)に幕臣近藤重蔵がエゾや千島を視察し、西エゾでは高島が第一の要路と説いて黎明期の小樽のについてその重要性をあげているが、文政四年(一八二一)に一度直轄をやめた幕府が安政元年(一八五四)に箱舘を直轄し、さらに大部分を松前藩から引きあげて再直轄したのは北海道周辺にロシアの東洋政策の手がのびてきたことに対する防衛のためで、ロシア艦隊が三日間も石狩湾にみ腰をすえて測量もやったあとだからノホホンとしているわけにはいかなかった。さらに、安政三年(一八五六)に幕府は布達して移民の奨励策を陪臣、浪人もの、農民、町民、がやってきて、とくに小樽以南のニシン場は出稼ぎがどんどんふえて、小樽では勝納川下流に密集するようになった。
一方の高島は「春はニシンの花が咲き、蔵は黄金を積立てて」(松本吉平衛日記)と書かれながらも「テミヤ海岸を通るとニシン粕を扱う悪臭にヘドが出た」(長岡藩士日記)とケナされる始末だが、いったい、小樽の都市の形成はニシンにその源流があるのはまちがいないとしても、入船川口という見方と勝納川口説の二つが対立している。
入船説は文化年間(一八〇四~一八一五)に運上家(交易所から漁業経営の拠点へ)が入船川口にできているから、このへんが一番人口が密だったというもので、勝納川説は歴史上ニンゲン発展の原点は大河の河口にあるが、入船川は明治初年でも川か芦の繁る湿地かハッキリしてなかった。明治五、六年ころ芦の中に運上家がポツンと建っていた。(古老)のに対し、勝納川口には鮭が上がり、舟が入ったから和人群居が考えられるというのである。
それを裏付けるように安政二年(一八五五)の再直轄時代から勝納川口に近い信香町が小樽の中心繁華街となり、郵便局も警察も、それに芝居小屋、遊廓が建ち並んだ…。さて、アナタはどっちをとりますかな。
警察(分署)ができたのは巡査六人が出張してきた明治七年で、分署長が写真の新撰組みたいなカッコウの北川誠一、のち郡長。また小樽郵便局は、明治五年十月に信香町に生まれ、港町や色内町に分局が出来たのは明治十四年とずっとあとだった。電信分局も八年に信香町に開局、かんじんの役場(郡役所)のはじまりも信香町(明治三年)だった。
しかし、役所の本家本元はすべて札幌にあった。全道一の商業経済都市として戦中まで君臨した小樽だが、行政の中心は開拓使の最初から人口において劣る札幌であり、戦後は経済も札幌に移るのだった。
(写真は小樽市史より)
入船川口
勝納川口
そば会席 小笠原
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