ある老親方~その一
2017年08月28日
本間栄太郎さんは現在九十二歳の高齢ながら蘭島で矍鑠として毎日ブドウ園の手入れにいそしんでいる。
この本間さんは誰にも真似のできないことを三つ成し遂げている。
その一つは北海道西海岸の正規の鰊建網を昭和三十六年まで経営したことで、これは建網の一番最後に当るそうだ。 次は昭和八年に三千本の身欠鰊を製造したことである。三千本の身欠鰊というと、生鰊に換算して一千二百石(九百㌧)になる。これは北海道の身欠鰊製造の新記録と言われる。
三つめは、本間さんが八十五歳の都市に五反歩(約五千平方㍍)の畠にブドウの苗木を植えて、今年で七年目を迎え、立派に成長したブドウ園を誰の手も借りずに一人で施肥、除草、手入れ、収穫などのいっさいをやっていることである。当初このブドウの苗木を植えた時、村の人達から笑われたそうだ。
「本間さん、いったいあんたはなんぼまで生きるつもりなんですか。」
だが本間さんはニコニコ笑ってなにもいわなかったそうだ。
本間さんは明治二十年(一八八七年)二月十一日に忍路で生まれたが、生後間もなく忍路の大火にあい、両親にともなわれ現在地の蘭島町に移住した。当時の忍路、蘭島、余市の海岸は鰊の全盛期であり、浜も街も鰊景気でそれはそれは大変な繁盛ぶりだった。
本間さんは少年のころからこの男性的で仕事甲斐のある鰊漁業に魅入られ、よしっ、自分も将来必ず鰊漁場を経営してみようと心に誓っていた。
二十二歳の時に忍路の鰊漁場に歩方の一人として参加したのがニシン漁の第一歩だった。以後同じ漁場へ八年間歩方として働いた。幸いにも八年の間、好漁に恵まれ、三十歳の時には一千五百円ほどの蓄えもでき、鰊漁業に対する知識も充分会得できた。
「よしっ、このへんで、独立する時機だ」
まず八年間世話になった親方のところへ行き、自分の決心を素直に述べて、今後の進みかたについて相談してみた。この親方は非常に人情味のある人で本間さんの話をじっくりと聞いてから
「本間くん、君の話はよくわかった。だがいま鰊の建網一ヵ統を経営するとなると、漁道具一式そろっている場所でも二千円から三千円の資金を要することになる。君の持ち金を全部つぎ込んでもとても足りない。しかし君がそれほどやってみたいなら思いきってやってみなさい。私も何とか協力しよう」
と力強く励ました。この言葉で本間さんは鰊漁場に働きだして九年目にして独立の旗揚げをしたのであった。
この時の本間さんの漁場経営の内容は、親方の定置網漁業権、漁網、漁船、漁具付で二割、自分が三割、若い衆へ五割という歩方制で始めたのであった。
試金石ともいうべきこの年のニシン漁に、本間さんは約百石(七十五㌧)の漁獲をあげ、親方から本間くんはなかなか漁運があるといわれたのが、今でもはっきり記憶しているという。
この年の若い衆一人当たりの歩方の配当金がごじゅうえんであった。
爾来、本間さんは毎年忍路で鰊漁業を続けてきた。
豊漁で喜び、不漁で嘆き、鰊漁業の醍醐味をかみしめながら何十年と過ごしてきたが、その間本間さんは蘭島で海産商を経営、また鰊の製造加工の仕事も兼業してきた。鰊の建網もその年によって四ヵ統も経営したこともあった。
本間さんの信条として鰊漁場の漁夫は必ず歩方制であった。三十歳で建網の親方となり、昭和三十六年の最後の経営までこの方針をただの一回たりとも曲げなかった。
親方も漁夫も同じ人間である以上共に提供し合い、共に潤い合うという信念を貫き通したわけである。
より
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