昭和会あとさき(下) 

2024年02月10日

 IMG_3829

大正十五年十月の市会議員の改選では、永い間絶対多数を誇った革新クラブは三十六名の定員中十七名の当選者を得ただけで、第一党であったが、昔日の威勢ではなかった。

 然し公正会も当選者僅か七名で、後年の代議士、戦後市長になって大変な苦労をした寿原英太郎が初出馬したのを落とし、もう一人、優秀な新人候補、一橋高商出身で板谷一門でもある新谷専太郎(後年の市議会議長)を見ん事落選の憂き目をみさしている。褪色覆うべくもなかった。

 一方中立で立った組が十一名。その中の杉江仙次郎も初当選だが、政友本党ということで公正会グループには入らなかったものであるらしい。

 その政友本党とは、政友会が平民宰相と謳われた総裁原敬が東京駅頭で暗殺されてから揉めつづけ、男爵山本達雄、中橋徳五郎、床次武治等の大臣級領袖が脱退して政友本党と称した時期があった。丁度その頃であったからである。

三十六才の松川嘉太郎も亦このときの初当選で、北海製缶専務松下高。料亭中島屋の親三親分。昨年物故した計理士、若き日の戸井正三。戦後逸早く社会党を名乗ってさっそうと代議士になった境一雄がその時二十七歳で当選している。然も境は六八七票で最高点であった。

 こういうことで数の上では公正会と中立とが合流すれば革新クラブをおさえることも出来なくない訳だが、なかなかそんなわけにはゆかない。

 中立組は兎も角市政研究会ということでまとまることにして初当選の松下高をいきなり副議長に就かせることには成功している。

 その翌年は昭和二年になる。十五年は年末改元があって昭和元年。その昭和二年公正会と中立組の一部とが合流。市政団体ということで昭和会が結成された。

 主唱者は公正会河原直孝、政友本党杉江仙次郎。惟惺に参じたものは田辺新一、竹田助太郎(後の小樽信金理事長)松川嘉太郎など。

 初理事長には、その前年逝くなった小豆将軍高橋直治の後を継いで貴族院の多額納税議員になった板谷の二代目宮吉を引っ張りだし、幹事長は買って出るようにして杉江仙次郎が就いた。

 この日から今日まで半世紀もの間小樽市政を掌握して来た昭和会が生まれたことになるのだが、結成当初の杉江幹事長の苦労はなかなかのものであった。何分にも古い連中とは肌合からして必ずしも合わない。その人々は大地主と漁業家が多く、新しい昭和会の人々は事業家と商人が多かった。古い連中の頭からは杉江幹事長は蝋燭屋の仙さんが離れず、成上りに見る傾があって却々に應じようとしない。

 千秋庵の二階の父の居間に来て、入るなり畳の上に引っくり返って目を瞑ぢていられるようなことも二度や三度ではなかったようだ。

 そういう昭和会ができたばかりで、とても後年の様な渾然一体にはなれないでいる情勢の中で昭和三年の選挙を迎えることになった。

 元老寺田省帰は再び出ないという。政敵山本厚三は悠々三戦目を目ざしてもう選挙をはじめている。昭和会としても何としても代議士を送り出さざるを得ない立場である。兎も角も道議経験者である森正則がしぶくるのを、寄ってたかって口説落としてみたものの、さて金がない。旧い有力な連中はいるのだが、前にも書いたように杉江幹事長の説得位では容易に金を出して呉れない。

 森は養子で早川商店は見事に先代以上にのし上げてはいるものの、たけ子夫人と親戚一門に遠慮がないということにはならない。その頃はまだ国会議員に出れば大抵の財産があっても井戸と塀しか残さないという考えが強い頃であったから話はむずかしかった。

 そんな事で往きつ戻りつ議論しているところに、前触れもなく元老の寺田省帰が富岡町の山から馬橇にゆられて事務所にあらわれた。

 その時の事務所は今の小樽信金の下の上光証券の裏手の家であった。

 幹事長として杉江が会として無理に立起を求めざるを得なかった事情、それからの経過と森の家庭事情まで改めて説明まだ選挙資金調達に悩んでいる実情を率直に縷々と述べ立てた。

 頷くでもなく黙々として聞き入っていた、気難しい顔の寺田元老やおら重い口を開いて「選挙というものはみんなの力を出しあって成り立つものである。金のある人は金を出して呉れればいい。手弁当で走り廻って呉れるというなら、それでもいいではないか。力を合わさずに出来るものではない。それが選挙というものである。」

 言葉は短い。

 重苦しい空気が一座に流れた。そこには板谷理事長。新宅さんとよばれていた板谷順助(後の代議士。鉄道参与官)寿原重太郎、河原直孝、笹田岩次郎、竹田助太郎、怪物とよばれた岩田三平。父新一も亦座にあった。

 と「いや金の事は承知しています」とやり切れなくなったように板谷理事長が口を切った。実はこの言葉が理事長からでればなんの事はないのが、ヤッサモッサもめていたのはこれが出ないためで、大体板谷は政治がそれ程好きなわけではなく押しつけられて理事長にもなったものの、進んで金を出すという筈もなかった。

 すかさず杉江幹事長が「奥さんの事は色内組でなんとか話をつけます」。

 と決って、直ぐ慶應大学を終えて帰ったばかりの森の長男久則(現ホクシ―会長)が呼ばれて、お父さん一代の決心なのだから、なんとか君の口からお母さんを説得して呉れるようと、この大人達に懇々といいふくめられる場面があって、かくて昭和会初の森代議士が誕生した。

 この選挙では沢田利吉一柳仲次郎、岡田伊太郎といった名だたる古豪が落選している。それだけに森の当選は本人よりも杉江幹事長にとってうれしかったろう。

 それにしても寺田のぢさまの貫録たるや大したものだった。あの顔ぶれのおやぢさん方が顔を揃えていて、見ていても腹が立つ程うじゃうじゃしていたのが、ぢさまの一言でビタンと決まったのにはたまげた。

 とは後年の雄弁代議士境一雄が語る思出話である。そのころ昭和会事務局長をしていた戸井正三と親交があったので耳にした話であろうか。

 その裏話は手を焼いた杉江幹事長が父新一と話合して公正会の元老寺田省帰を動かしての芝居であったのだ。

 その次々年の昭和五年の市会議員選挙で昭和会は二十名を当選させ、遂に市会の絶対多数党にのし上り昭和八年には板谷理事長を渡辺兵四郎以後十八年振りで地元市長として、土肥太吉翁の拠金で出来たばかりの広壮な小樽市庁舎に送り込む事にまでなる。

 試みにこの時期の当選者の中から昭和会所属の人々を拾ってみると、

 岩谷静衛(弁護士。後年の道議。市会議長。)本間保次郎(本間酒造社長。後副議長)田辺新一(小樽物産倉庫社長。千秋庵主。終りまで目立った公職には就かず)笹田岩次郎(先代笹田商店社長)寿原英太郎(寿原商事社長。後の代議士。市長)河原直孝(後会議所会頭。市会議長。市長)杉江仙次郎(杉江商事社長。後中央バス社長。会議所会頭)田中市太郎(田中酒造社長)

 こういう錚々の人々が昭和会の中心であり、その情熱の凝集が昭和六年の海湾博開催にまで盛上ることになる。更に昭和十二年花園公園で催された小樽単独の北海道大博覧会にまで昇華する。これが小樽発展史の頂上であったろう。

 かくて昭和会は結成以来四十数年。小樽市政を牛耳って来た事になる。戦後革新政党の躍進に脅かされたこともあり、昭和三十一年の保守合同では長年のライバル旧憲政会系の革新クラブ民主党と合同して自民党になっても、その第一党の主流は依然として昭和会であり、その中心は結成以来の唯一人の人松川嘉太郎翁その人である。

 全国的にも多くはない栄光の歴史であろうか。

 それにつけても想起されるのは、その頃もう白髪であった杉江幹事長の結成当時の苦悩の姿である。然もよくぞそれに打ち克ったものである。

 今の無気力な小樽の姿を地下のこの人がなんと観じておられるだろうか。忸怩たるものがあるではないか。

 註。松川嘉太郎翁は昭和五年の市議選には病中で立たなかった。従って当選者の中には入っていない。

(敬称を略したことをお詫びします)

~タイムマシン小樽 田辺 順

 月刊おたる

 昭和48年3月号~48年12月号連載より

IMG_4293だから 昭和通りなのかな?

IMG_4294この辺りに事務所があったのでしょう

~2016.1.30~