流芳後世 おたる 海陽亭 (十五)
2016年01月22日
『キングポスト・トラス』その2
この和様混然とした建築様式は次第に整理されて後に、和洋折衷という形で近代建築の中に新しい様式を確立していく。
この和様混然とした日本独特の建築様式は、早くも明治維新から数年で遊廓に現れる。
妓樓は江戸時代には、2階までしか許されていなかった。
明治維新後、大建築ができるようになると吉原では、3、4階のいわゆる、西洋式の大厦高樓が出現してくる。1897年(明治30年)に描かれた吉原妓樓の図によれば、吉原はたびたび火災に会ったが焼けるたびに焼け太りし、大きな樓になったとある。
この吉原妓樓の図によると、樓は早くから西洋式を取り入れたとなっている。
この樓の小屋組から下の部分は、完全な和風建築となっているから西洋式となっているのは、小屋組部分であろう。
即ち、海陽亭の造りと同じなのである。
古い体面を保ちながらも、いちはやく進取のことに目をむける、この世界独特の機知であろう。
近代建築史の歴史観念からいっても又、小樽に遺されている先人からの古建築遺産としても、海陽亭が完成されていない構造のキングポストであったことに価値を見いだすことができる。
海陽亭については建築様式、構造、工法、材料などの社会的評価と、建物が建てられた社会的背景による評価とを区別して考える必要がある。
海陽亭の建築学的評価は高くないが、海陽亭を路傍の石のごとく扱うのではなく、斬新な工法をいちはやく取り入れて、近代建築の形態作りに大きな影響を残す役割を担ったことに対して評価すべきであろう。
次に、キングポストの現地調査の結果をまとめる。
1896年(明治29年)の住ノ江大火では大広間の棟だけは焼け残ったという説が一部にある。
この度の調査では小屋裏に火災の痕跡は、全く認められなかった。
建築年代の考証のところでも述べたが、住ノ江火災の時の新聞に掲載された海陽亭の類焼見舞お礼の広告に示す通り、、最初の魁陽亭は延焼したのである。
小屋組みのトラス間隔は1間、屋根勾配は4寸、トラスの合掌尻は、通しボルトで締められている。仕口の納め程度は、当時の工匠の技量と比較して低い。
野地板は、4分厚(12㎜)の松板であるが建築当初のものではなく改修されたものである。
従って、現在は鉄板葺きの屋根が、当初から鉄板葺きであったか、あるいは別の材料で葺かれていたかは判断出来ない。
小屋組材は欠き込みされている材が多く、ほかで使われていたことを示している。
トラス全体の材のバランスも悪く、古材の多くは海陽亭の小屋組みのために加工されたものではない。
このあたりをみても海陽亭のキングポストは、純粋な洋風建築をめざした流れや、疑似洋風を狙った流れとは異なることがわかる。純粋な洋風建築や疑似洋風建築に端を発し、和洋混然の独自の建築スタイルを作りだし、近代の西洋建築を市井に定着させた力がここにある。
即ち、純粋の洋風建築や疑似洋風建築では、先に述べた理由から一般に普及するのは難しい。
それまでの日本建築の厳しい技法を、和洋混然の中で、取捨選択し、簡便な方法で、近代建築としての洋風建築を根付かせた。
小屋組に使われている多くの材は、松材で面付きである。
材の面には大鋸による引き跡と、鉞(まさかり)による削り跡がある。
大広間の小屋組に、中広間の小屋組が取り付けられていて、中広間が増築されたという説が立証された。
大広間の小屋と中広間の小屋との取り合い部分に、一部柾葺きが見られる。柾葺きの年代は確認できない。
大広間の屋根の形は方形で、鏑束がある。この鏑束の台持ちトラス受けの柄堀りがある。が、この中の一本の柄堀りには、何故かトラスが納まっていない。最初からこのトラスを、省いて小屋組を形成したようである。
小屋組に鏑束のトラスをうける筈の取り合い仕口のあとがのこっていない。
このあたりにも、この頃のキングポストが、まだ完成した技術で普及していなかったことをうかがわせている。
又、現在では真束の台持ちと陸梁との取り合いに、必ず設けられている箱金物も無い。
構造学的に確立された技術の整理がされていないことを示している。海陽亭より後に建てられた建物で、キングポスト構造による小屋組が判明すれば、小樽に於けるキングポスト・トラスの流れが確認でき、建築学的意義が大きい。
今後、新たな文献や対象古建築の出現を待ちたい。
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