流芳後世 おたる 海陽亭 (十四)
2016年01月21日
『キングポスト・トラス』その1
海陽亭の小屋組は、明治時代に建った大広間の棟と、大正時代に建った中広間の棟は、共にキングポスト・トラス(真束小屋組)である。
現在においては、キングポスト・トラスの小屋組は、ごく普通に見られ又、工法的においても、構造力学の上から明確になっている。しかし、海陽亭の大広間が建った明治時代には、昔ながらの和小屋組が主流を占めており、西洋のトラス構造の一つであるキングポストは、日本に伝わってまもない珍しい構造であった。
勿論、工法的にも構造力学の上からも、理論的に今日の技術まで確立していなかった。
我国の近代建築を論じるとき、外国からの新技術であるトラス構造の中のキングポストを省いて論じる訳にはいかない。
従ってこの調査報告書では、少々、長くなるが海陽亭の建物の重要なポイントを占めるキングポストについて、その歴史から触れることとする。
キングポスト(真束小屋組)やクイーンポスト(対束小屋組)をはじめとしてトラス構造に数種類の形態があるが、形態の如何に拘わらず構造の誕生の歴史は古い。
中世にはかなり進んだ形のトラスが現れているが力学的解析を伴った応用は19世紀中ごろのアメリカにおいてである。
1860年代中頃には図式解法が研究され、設計理論の確立が試みられた。
現在のところ、我が国ではっきりしているトラス構造に依る建物の出現は1859年(安政6年)であるからかなり早い時期によるものである。
しかし、キングポスト・トラス構造に限ってみると、設計理論の確立はまだ先のことである。
薩摩藩主 島津成彬は、1858年(安政5年)邸敷地内に5棟の工場を建てた。工場は、兵器、陶器、硫酸、ガラス、アルコールの試験製造のためのものであった。
この5棟の工場群を集成館と称していたが、1863年薩英戦争で破壊。その後再興され1865年(慶応元年)に竣功した。
その中の機械工場を後に博物館とし、尚古集成館と称するようになった。この尚古集成館が、我が国に現存する最古のキングポスト・トラス構造の建物である。
しかしながら、この頃のキングポストの構造は全体的に未発達のものであった。
海陽亭のキングポストにおいても、まだまだ未熟な技術である。
大広間の小屋梁の成は、トラスを形成する力学的比例を失し、また合掌尻、真束と陸梁の力の釣り合い、全体の部材寸法比率などに設計理論が確立していない技術での施行を示している。
1880年(明治13年)11月竣功の豊平館(札幌)、同じ年に着工した旧国鉄長浜驛(明治15年竣工)などはほぼ完成されたキングポストである。
薩摩尚古集成館が建てられてから、僅か15年の短い年月でキングポスト・トラスの工法が一応確立している。
外国人技師により我が国に導入されたキングポスト・トラスが欧米の設計理論の確立と時期を同じくして国内に完成している。
この時代の我が国における西洋建築の発展をみると、二つの流れとなっている。
一つは、徳川幕府から明治政府に引き継がれて行く公的なもの、例えば、長崎飽の浦熔鉄所、集成館工場、横須賀製鉄所、大阪造幣寮、群馬県富岡市にある富岡製糸所などで、その殆どは、お雇い外国人技師によるものである。
もう一つは、1859年(安政6年)アメリカ、イギリス、オランダ、フランスなどに開放した居留置の外国人用住宅、事務所などの建築に携わった日本人工匠による流れである。
海陽亭の大広間が建てられた明治29年頃、西洋の建築技術であるキングポストが小樽まで敷延した背景は、この二つの流れのどちらかである。
札幌の豊平館は、開拓使直属の洋造ホテルとして、開拓使工業局営繕課が同課の技術者の総力をあげて設計と工事にあたった。
集められた工匠、職人、人足にいたるまでよりすぐりの者たちであった。
豊平館の完成後、3年たった1884年(明治16年)小樽手宮機関庫が着工された。この手宮機関庫は、開拓使のお雇い外国人技師の設計によるが、キングポスト・トラスを変形させた構造である。更に、その数年後には小樽の有幌町や南浜、北浜の運河沿に木骨石張り構造の倉庫群が建てられた。
この木骨石張り構造の倉庫の殆どは、キングポスト構造による建築である。大きなスパンを必要とする倉庫のニーズと、キングポスト・トラスの西洋建築技術の市井への敷延とがちょうど、一致し、小樽経済を支える倉庫群を作りだした。
これらの倉庫群の多くは今も、倉庫として、あるいはリペア(修理)、リサイクル(再生)され色々な姿で遺されている。
この倉庫群は、1897年(明治30年)頃までに形作られている。豊平館のキングポストは、かなり洗練された小屋組であり、技術的にも評価されるものである。
手宮機関庫や運河沿の倉庫群のキングポストも、海陽亭の小屋組に比して、より完成度が高い。
豊平館や手宮機関庫のような公共的建築物や、木骨石張り造のように、西洋建築の手法を早くから取り入れた工匠の手によるものとの技術的格差が現われている。
このように考えていくと、海陽亭のキングポストは、西行(さいぎょう)による仕事と考えるより、砲兵間や手宮機関庫、木骨石張り倉庫群など、進取の西洋技術がこれらの建物を通して、市井に広まったと考えることのほうが普遍的であろうか。
我が国の近代建築史の流れからみると、西洋建築が我が国に定着する歴史は、次のような三種類の様式による。
即ち、豊平館のように完全な洋風建築を目指したもの、木骨石張りの倉庫のように疑似洋風的なもの、そして海陽亭のように和洋混然なものの三種類の様式で発達している。
そして実は、この和様混然の形の建物が、我が国の近代建築を発達させる源となっている。
確かに我が国に西洋建築の技術を伝えたのは、長崎の出島におけるオランダ商館を通じた椅子式の居住空間であり、ガラス戸の応用であったかもしれない。
又、他方、長崎飽の浦鎔鉄所1860年(万延元年)起工、1861年(文久元年)完成や横須賀製鉄所1865年(慶応元年)起工、大阪造幣寮1868年(明治元年)起工のように、お雇い外国人技師の設計によるものがあって、外国人技師の指導の下に日本人工匠の手による、完全な洋風建築もある。
しかしながら、これらお雇い外国人技師によるしっかりした設計と現場での指導が行われなかったときなどは、日本人工匠は、昔ながらの和小屋組の技術により小屋組を作っている。
そこには、伝統技術にこだわる日本人工匠としての、意地と誇りが垣間見られる。
その意地と誇りとそして、文明開化という進取の気持ちが西洋建築を日本古来の建築技術に同化させて我が国に於ける、近代建築の礎を築いていったのである。
設計と現場の指導を外国人技師に頼っていたならば、我が国において、西洋建築の技術の普及はまだまだ時間がかかり、近代建築史の流れも違う形をとっていたかもしれない。
純粋な洋風建築をめざすとすれば、洋風の材料の輸入量に限界があったろうし、また費用的にも割高となり、一般的に普及するには、障害多すぎた。
その点、小屋組を従来の和風小屋組とし、部屋回りを洋風としたり逆に、小屋組を洋風として部屋回りを和風とするなど、和洋混然の形は、色々なニーズに対応でき、一般建築に取り入れやすかった。
この和様混然とした建築様式は次第に整理され後に、和洋折衷という形で近代建築の中に新しい様式を確立していく。
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