流芳後世 おたる 海陽亭 (十一) 

2016年01月18日

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『地階』

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 地階は、建設当初から改修の形跡は見当たらない。

 前室および、床の間付きの10畳の和室と7.5畳の和室は共に客室としての造作ではない。

 この和室と納戸の間には、踏み込みがある。芸妓や幇間の間であったのであろうか。

 この地階の横に玄関があったという説がある。玄関の奥には、花洞という名の部屋があったという。花洞という部屋は、1914年(大正3年)に発行された棟方虎夫著〈小樽〉という小冊子の一節「娯楽の栞」という部分にあるが、冬景色の玄関もこの小冊子に掲載されている。

 この小冊子にはこの他大広間の明石、次に広い花吹雪、最近設けた数寄を凝らした羽衣、千鳥、ほかに夜桜、春雨、松風、桃、樫、浅酌低唱の趣ある四畳半の夕霞とある。伊藤博文が宿泊した部屋はこの中の一室であるが、どの部屋に泊ったか不明である。

 この小冊子の発行されたのは前述の通り1914年(大正3年)である。地階の隣にあったとされる玄関と花洞の部屋がこの時すでにあったとすれば、大広間の棟と花洞の棟との間にある中広間の棟はそれまで建っていた建物を壊して増築したことになる。

 前述の大広間の棟の玄関のところで述べた冬景色の玄関が、ここにあったものであるかどうか確認できない。

 冬景色の玄関の左にある建物は玄関より下がった敷地に建てられており、現在の構図と符合する。

 話を地階に戻すが、地階和室の隣にある踏み込みの外に、ちょっと離れて踏み石がある。

 その先には、日本の製紙王といわれた藤原銀次郎が、自分専用として建てたという2棟の茶室があった。この茶室と前述の花洞の棟との位置関係はわからない。

 [藤原 銀次郎]

 1869~1960(明治2年~昭和35年)長野県生まれ。

 慶應義塾卒、三井物産小樽支店長から、1911年(明治44年)王子製紙専務に転じ北海道の山林原野を購入する一方、樺太の森林を造林し、パルプ備林経営の基礎を築いた。

 1939年(昭和14年)には私財を投じ、藤原工業大学(現在の慶應義塾大学工学部)を創設。

 第二次世界大戦中、商工大臣、軍需大臣を歴任した。

 藤原は茶道に対する造詣が深く、小樽湾を望む海陽亭の庭園内に自前の茶室を建てて、国家的事業の推進のため心を癒した。

 又、三井家のお抱え板前料理人を招き、北海道には無い料理を海陽亭に伝えた。

 この茶室は残念なことに戦後、解体され今は痕跡も残っていない。

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