流芳後世 おたる 海陽亭 (三)
2016年01月05日
『2階大広間』
大広間については、従来から1896年(明治29年)の住ノ江大火後再建され、当時のまま、現在に至っていると言われていた。
しかし、この度の調査によって、天井、間仕切り、床の間は改修され、建築当時と異なることがわかった。
大火で焼失して再建後、巷では『樓の構造新古を折衷し手を盡したる二階大広間は梁間4間、桁行15間「明石」と名付け138畳敷の部屋は、優に150人の大宴會を催すことができる。小樽割烹の老舗たると共に隋一の酒樓として本道に名を知られ、女将こう子の愛嬌は眞に粋界の珍なり』と謳われた。
ここで、この文章に出てくる〈樓の構造新古を折衷し〉について考えて見る。
この度の調査でも、2階では、大広間の天井、間仕切り、床の間以外には、改修の形跡が見当たらず、この部分以外に、構造上建築当時と変わっているところはない。従って、〈構造新古〉の古い方とは、従来の工法である和風の構造を意味し、新しい方とは、小屋組みのキングポスト構造を指していると推察できる。
現在の海陽亭の部分で、当時の建築工法として新しい技術や構造は、キングポスト以外に見当たらないことからである。
大火後、以前にも増した大きな楼を、しかも欧米からの移入工法であるキングポストを用いて建築するならば、当然人々の噂になったことは、想像に難くない。噂になればこそ〈構造新古を折衷〉と謳われ、後に伝わっていると思われる。
この〈構造新古を折衷し〉という記述は、1912年(明治45年)に刊行された小樽花柳史の中に「今日の花柳界」という一節があり、このなかで出てくる。人々の目に触れる機会が少ない本なので、少し長くなるが、海陽亭の記述部分を紹介する。
〈今日の花柳界〉
◎開陽亭(山ノ上町 電話二一番)
小樽の三叉荘とは眞に此樓を謂ふのであらふ。
山上高臺天に聳ゆのる大廈高樓にして。欄に倚って東方を眺んか。
墨色畫に似たる小樽灣は蒼波躍ってに双眸に容る。
一波高一波低自然の樂を奏す。夜は宿す漁火船燈煌々として蒼浪映ずる等詩趣自から湧いて盃中月を生むの粹あり。
甞て伊藤公北遊の途次。盛夏三伏の苦熱を避けんとして一夜此樓に宿す。
偶々夕月の登りて一湾金蛇銀鱗を奔らすの時涼風海より來りて神爽やかに緑火酒に写って妓の追分節を謡ふや公は思はず膝を叩いて絶妙を叫ぶ。爾来此樓北海蒼浪閣の稱あり。
春は前裁の櫻季薫じて客亦艶羨の色あり。
座を替えて一方の欄に佇ずめば 天狗山の新緑、花園の青薫落暉を誘ふて奇觀亦奇觀を呈す。冬は一眸に銀世界を蒐め厂風呂に垢を流して近江八景の珍味に淺酌すれば快言ふ可からず。
樓構造新古を折衷して十数室有すれば宴會可なり四畳半的低唱にも適す。小樽割烹の老舗たると共に随一の酒樓として本道に名を知られ女將こう子の愛嬌は眞に粹界の珍なり。
小樽花柳史より(原文のママ)
↓
『この文を書いた方、遊び心があると思いません?ふつう、原文のままと書くと思うんですけど…。』
どうしてこの飾り?
『越後屋のおとうさん、拍子木も見せてもらいましたよ』
そば会席 小笠原
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