龍宮閣
2015年12月05日
オタモイ遊園地の超目玉にした建造物でした。海抜五十米の岩上に立つ朱塗りの唐風の建てものは、まるで浦島太郎の世界から借りてきた名前じゃないかと思われます。材料はすべて海から船で運びました。宮造りといって、釘の使わない造り方でした。どうやってこの岩上に、クレーン車もなかった当時基礎工事も満足でなかった当時船から運び、組み立てて行ったのでしょうか・・・・・・、どれ位の人数、どれ程の動力が必要としたのでしょうか、一歩間違えば奈落の底へつきおちそうなこのがけの上に工事した人達はどんな気持ちで従事していたのでしょうか……想像を絶する思いがしました。
一階には女中部屋、大衆食堂、炊事場等があり、二階には宴会場(五十人まで)と普通の魚の名のついた部屋、三階には、乙姫と浦島の名のついた部屋と、たいの間があったそうです。天上には数々の魚の絵がはってありました。窓から外を見ると紺ぺきの海が白い波をたてながら笑っているように見えたそうです。そう、まるで海上に、いや海の中にいる様な錯覚にさえとられたそうです。
料理の材料は近くの漁師や、農家から仕入れ、鯉料理や鍋の器は、九谷焼と、から門の絵を取った薄青い、清水焼を使っていたようです。でも、高級料理、宴会等は、一般大衆向けではなく、万民には夢の世界だったようです。そして、あくまでも休けい施設にすぎず、宿泊はみとめられませんでした。(かくれた宿泊者がいたかもしれません。)朝八時頃から、日没の五時か六時まで営業していたそうです。雪どけの四月頃から毎年道路補修工事を始め、五月中旬頃から営業開始し、十一月頃で閉鎖していたようです。
昭和十六年、十七年、戦争が激しくなり、若者は戦争に取られ、ぜいたく施設とみなされ、人々はだんだん足が遠のき、又、物資不足になり営業できなくなって、加藤さんの蛇の目は倒産してしまい、小樽市に税金の抵当にされてしまいました。そして次に吉岡太陽が入札しました。
しかし竜宮閣を築いた加藤さん、買い受けた吉岡さんの努力もむなしく時は流れ流れて、昭和二十七年夢の龍宮閣は焼失してしまいました。その年の五月、営業開始日の前日の出来事だったそうです。女中がわかしたふろの火が強風のため、まさ屋根に火のこが飛んで火が付いたという説や、漏電だったという説があり原因は今もって定かでないようです。当時の従業員は十三名でした。強風の激しい古平大火の同じ日の昼火事でした。消防車は海上と陸から消火にあたったのですが、ホースが短くて届かず、焼け落ちるのをただ茫然とみていました。そして、弁天閣や、近くの建物の延焼を防ぐのがやっとでした。龍宮閣近くの太い大きな生木がメリメリと音を立ててもえ上っていました。おそろしい火事でした。火の粉が花吹雪のように舞っていた火事でした。
龍宮閣が今でも残っていたとしたら、国宝位?に指定されたかもしれないし、又、火事が起きたとしても今の消火活動では消失することはなかったと思います。この施設がなくなったおかげで、斜陽小樽のきっかけになったのではないでしょうか。
戦争がにくい!火事がにくい……とつくづく思った。
~オタモイ・幸地区のむかしより
越後屋のおとうさんのお話
「この龍宮閣を建てた加藤さん。蛇の目寿司を経営していました。その寿司屋のあったところは花銀通り、今の老人施設が建っている所です。店には鯉の泳ぐ池があり、弁天様を祀っていました。」
蛇の目寿司があった場所
アーケード街から
『ニュー三幸の一直線上にあるのは、稲穂小だったんだ。』
『市場では…。昨年1匹百円で高い、と思っていたシャコ。が、250円の値段も出現。蝦蛄が高級魚になっちゃった~。』
そば会席 小笠原
北海道小樽市桜2丁目17-4電話:0134-26-6471, 090-5959-6100
FAX:電話番号と同じ
E-mail:qqhx3xq9k@circus.ocn.ne.jp
営業時間:10:30~21:30
定休日:月曜日