小樽郊外夢の里オタモイ遊園地 

2015年11月06日

IMG_2001より

 かって、ここは北海道でも三本の指に入った行楽地だったそうです。昭和四年、一市民の加藤秋太郎さん(当時六十三才)愛知県名古屋出身者が企画されたそうです。彼は一人息子が戦争に取られ、淋しさのあまり財産をこの計画についやしたそうです。

 あちこち調べさがしているうちに赤岩附近に、白蛇の谷と称する絶勝の場所がある事を友人を通し知ったそうです。そしてつね日頃崇敬していた弁財天をまつると共に一大遊園地を建設する決心をしたそうです。オタモイ沿岸の山と漁場を合せて十万坪買収し、これらと子供向けブランコ、すべり台、角力場、グランド、演芸場等の施設を合わせて、当時の金額で総工費二十七万円?(五十万円?)を費やし、昭和七年、三年数カ月をかけて完成しました。

 この工事で尊い人命が失われました。その人をまつる地蔵尊が今でもまつられ、そこを通る人に供養されていますがその地蔵尊が言葉を語る事ができたなら建設当時の苦労話を心ゆくまで聞かしてもらえたのにと思いました。

 ここに入園する通路は二通りありました。一つは銀バスという銀色に輝く郊外バスにのり、唐門を通ってオタモイの七曲りの頂上へ出る方法。今のオタモイ坂上の広場がそうです。そこにテケツと称するキップ売り場があり、そこで大人十銭位払って人々は波の形どったアーチをくぐり、さくら並木が続く曲りくねった道を通りボンボリが両端に立ち、毎日がお祭りみたいに、にぎやかだったそうです。

 又、もう一通りは、小樽バスにのり、今のオタモイ自動車教習所の前を通り、通称二十四曲りを回って地蔵尊の所で入園料を払う方法でした、人だけが通れる程の一メートルたらずの道でした。

 観光という言葉さえなかったこの頃、加藤さんは、小樽郊外のこの場に、建物すべてを唐風にし、内地のあちこちの建物を研究し、試案しながら造られたそうです。毎日が、人で人で、あとをたたず、道路を横ぎろうとしても人がじゃまでしばらくできなかった位のにぎやかさだったようです。

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 IMG_1397七曲り道路入り口付近から見た小樽

 越後屋のおとうさんのお話

『この工事を請け負ったのは今でも小樽にある山谷建設です。ご存じの通り、資材は海から運び造って行ったんです。屋根はトタンだと潮風でやられてしまうので、コールタールの屋根にしたんですが、火が付くと燃えやすかったんです。亡くなった大工さんは山谷建設の大工さんではなく、加藤さんお抱えの大工さんでした。足場を踏み外したようです。』