安達市政と今は亡き忘れ得ぬ人々 (五)
2015年09月07日
安達市長が四期十六年の市政運営を蔭で強く支えていたのは小樽中学(現潮陵高)同期生の工藤修三氏である。物心ともに市長は工藤氏の奔走によってその大任を果たし得たといっても過言ではない。工藤氏は謹厳実直、古武士的な方であり、二期目には市長応援のため市議に立起したが市長選に専念して次点落選となったが「安達市長がそういうなら間違いあるまい』と信じる事助けることに徹した人であった。安達市長にとって生涯の友としてはこれ以上高潔で私信ののない誠実な人はいなかったと思う。
道議会議員としては、高橋源次郎氏と鈴木源重氏がおられる。高橋氏は椎熊代議士の直系にあたり、温厚に着実な政治活動を続けられ、市政運営にも寄与された。鈴木源重氏は社会党、港湾労働者の代表として人気があり「ヒゲの源重さん」と親しまれ、道議会では副議長もつとめられた後市議を一期つとめられた。人柄がにじじみでる朴とつな演説の中で、「安達さん、あなたは革新の我々のところに戻ってきて欲しい」と退任にあたってのあいさつが耳に残っている。
安達市政のスタートと入れ替りに市を退き道議会議員になられた三室光雄氏は一期目で道政政審会長に就任するほど実力者であった。苫米地代議士と同様に強硬な反安達で道議会でしばしば安達市政の攻撃を行ったが、二期目に落選して商工会議所の専務理事に迎えられた。三室氏はこの頃から安達市政にも深い理解を示され、三十三年の北海道大博覧会小樽会場の開催、水族館の建設に経済界として非常な努力を尽くされた。
安達市長が就任されたときの商工会議所会頭は今もご健在な松川嘉太郎氏であるが、天皇といわれる程財界の大御所で自由党のトップにおり、市長がどうしても商工会議所との連携をはからなければならないときに反安達の会頭ではなにかにつけて面倒な事態が生じる。そのとき上手にとりもって運んでくれたのがときの専務理事福岡理作氏である。「小樽のためにお互いよかれと仕事をするのだから心配しないで私に任せなさい。会頭には私からなんとか話をつけてパイプをつまらせないようにしなければ小樽が困る」と蔭乍心を砕かれた。日頃は地味な人柄のように見えたが、ツボをおさえ大所高所からの自らの役目というものを心得られた方であった、
市議会では、安達市政スタート時の岩谷静衛議長と見延庄一郎副議長のお二人。ともに絶対多数の野党たる自由党の重鎮で、まったくのズブの素人市長と弁護士で議長経験豊富な岩谷議長と財界を代表する重厚な貫録を持った見延副議長との関係の機微にわたることはしるべくもないが、強引な議事さばきや、寿原前市長が北海道庁から招いた永山第一助役の再任提案が否決され、やむなく退職されるなどが印象深い。当時は議会が開かれると深夜徹夜は珍しくなく、市政記者が悲鳴をあげていた。正副議長も市長と立場こそ違え大いに苦悩された時代だと思う。議会構成は自由党二十五、民主党六、社会党四、中立無所属五という状況であった。その後議長職にあられた東策氏は行動的で議会運営だけでなく関係方面への陳情や事業推進に市長とともに活躍された。同じ議長の島野一ニ氏は温厚の裡にも特に自らを律することに厳しく、高遇な人格を敬慕された。副議長としては北秀太郎氏と小林栄太郎氏がおられるが、いずれも謹厳な人格者で理を説き筋を通して市政の発展に貢献された。遠大な都市計画と港湾整備を常に主張された奥谷甚吉氏は地方政治家としての誇りをなによりも宝とし重病のため入院中に叙勲伝達の報をうけると是非病院でなく議場でお受けしたいと望まれ、当日は看護婦に支えられ乍もモーニングを着用して出席、与野党席からひとしくこの明治の気骨振りに拍手を送られた。特異な立場で安達市政に係わりをもたれたのは無所属中立の鎌田幸次氏である。市内のトップ企業三馬ゴムの専務であり、議会が緊迫の事態になるたびにその去就が与野党の注目を集め、市長も鎌田氏のキャステングボードを握った立場での良識にしばしば助けられたと聞いている。
~安達与五郎追悼録 安達市政回顧より
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