あのころの山 (赤岩山 その3)
2015年07月05日
w1ベルギー岩南東面
左スカイラインが北大ルート。左取付から正面二斜め上にあるクラックから右上の樹木のある裏側へ廻りこむルートを、中島と私でつけた。右側に下部のオーバーハングして上までつづくクラックがある。「あのクラック、誰か登っていませんか?」いまは亡き札幌山岳会の漆畑 譲さんに問われたことがあった。ないというと、「しめた」と膝をたたいていたのが思い出される。
マンメリーのクレッテルシュー
菅谷が麻裏の本物のクレッテルシューを買ったのがうらやましかった。仲間の中島や伽賀は学生、私は安月給、テニス靴で我慢してゐたところ、あるとき中島が独逸の雑誌で、生ゴムのテニス靴をマンメリーが愛用してゐることを知った。僕らは愉快になり誇りとした。ー山のアルバムよりー
本ものの麻裏クレッテルシューは、岩が濡れているときにはよい。いまの人はビムラム底かナーゲルだが、当時は摩擦に強く軽い靴を使用した。戦後は地下足袋が多かった。
w5棚岩ムガーの登攀
一九三六(昭一一)
w1とw3の間にある岩棚、小規模ながら初歩のころ、ホールドやスタンスをよく見て登るのによい岩であった。一番端のリスを利用して、ハーケンを一本打って登った。ザイルを股に通したのがいけないと……。
この時の靴は、マンメリーのクレッテルシュー、テニス靴である。 現在、この岩のハーケンの手前が大きく崩壊している。
失敗は失敗
失敗は経験の基、といふ格言があるが、岩登りに於ては当嵌らない。失敗は失敗である。ー山のアルバムよりー
誰よりも臆病な私は、岩に馴れるのに時間がかかった。一〇mも一〇〇mも墜落すれば死である。一〇〇mの方がむしろ苦しまずにすむかもしれない。そう思ったら、だんだん恐怖心がなくなった。そうして、常に自分にいい聞かせた言葉であったが……。
E2東チムニー岩西カンテ登攀
このときのパートナーは菅谷の弟・儀三さん。ジヘル一原。
一九三九(昭一四)年ころから、儀三さんが仲間に加わった。この登攀を最後に、徴用にて軍事工場にゆき、中国に渡って音信が絶えた。最近、帰化して現地人と結婚して元気でいるとの消息を聞いた。
そば会席 小笠原
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