一つの街角に見る変容 54
2016年02月22日
小樽区制時代(明治22年~大正11年)における商店の中心は色内大通りであった。
いま、この通りに残っている建物を見ても当時の繁栄が偲ばれる。
大正12年、この色内大通りにあった今井呉服店が稲穂町に移り、デパートとして開業した前後に、色内周辺にあった食料品店、茶舗、菓子店、蓄音機店、洋品店なども稲穂町に移って新店舗をかまえたことにより、商店街のメーンストリートは稲穂町中心となった。しにせの大国屋もその中心地にあったが、本年4月をもって廃業となってしまった。
私の子供心に残っている大国屋は、見事な着こなしの男子店員の和服姿と、正月にこの大国屋から金でつくられた大黒さんのお守りを贈られ、それを家の神棚に飾ったことである。この建物の近くにコイワイという洋服店があり、両親から洋服を買ってもらい、そのあと大国屋に連れていってもらったことをおぼえている。
青春時代にも、よくこのデパートのネクタイ部に足を運んだものだった。あるとき、市内の美術家から白菊を描いた色紙をいただいた。それをなじみの女店員に見せた。この娘は日ごろから、どことなくかげりを感じさせる静かな人であった。
その娘は、色紙に心ひかれたのか2、3日手元に置かせてほしいと言うので、そのとおりにした。その後、この娘は店に姿をみせなくなった。
それから何ヵ月か過ぎたある日、その娘が天狗山で心中し、遺体で発見されたことを新聞で知った。色紙を描いてくれた画家には申し訳なく思ったが、一枚の白菊の絵に思いをこめたその人の心境に複雑なものを感じた。色紙の画家も今はこの世にいない。
人それぞれ大国屋にまつわる思い出があるだろう。取壊された大国屋の跡地を見ながら、私は過ぎし日の記憶としてそんなことがよみがえってくるのである。
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大国屋の前身は富山の古着商の「京善屋」で、そのあと「紅屋」と改め、明治10年から「大国屋」となった。大国屋の国の字は長い間、國を使い3字ともにヒゲ文字であった。
この大国屋が支店として稲穂町の現在地に開業したのが明治40年、大正13年に個人経営から株式会社となった。昭和9年に店を拡張改築し、デパートとしてスタートした。更に本社を富山から小樽に移転したのは昭和24年である。〇井今井、大国屋、ニューギンザデパートの3店は小樽の中心街にあってお客を呼んだ。大国屋は昭和28年に店を増床し、更に昭和31年には都通まで増床したのである。
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今はない大国屋を高く評価するもの一つとして5階の催物会場をあげることができる。このフロアーは特売会場だけでなく、美術展はじめ多くの作品発表の場に供された。現在のように専門の展示場がなかった時代から長年にわたり市民が利用した。別な言い方をすれば、小樽文化の発信の場でもあった。
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時は流れ、時代は変容する。かって商店街として繁栄した色内大通りは閑散とした時代もあったが、いま再び人が集まり、特色のあるいろいろな店ができて大きな変貌をとげている。
歴史とは、現在と過去との絶えることない対話だということを実感する。
A 戦前 花園町側からみた大国屋周辺、現在の河村ふとん店はビアホールでその隣にカフェーXがみえる。
B 戦前 手宮側からみた大国屋周辺。
C 戦前 都通り側からみた大国屋周辺、左手前の建物は青木小児科病院であり、その造形もいいものであった。
D 増改築工事が昭和29年に完成し、入口にその看板をかかげて新装開店した時の大国屋デパート。都通り側には病院が残っている。
~HISTORY PLAZA 54
小樽市史軟解 第2巻 岩坂 桂二
月刊ラブおたる
平成3年11月~5年10月号連載より
今日はいつになくたくさんの
ゴメがいたのですが
そば会席 小笠原
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