女優・園井恵子と小樽 51
2015年09月21日
昭和初期、宝塚歌劇の小夜福子が人気絶頂のころ、同じく宝塚に「ハカマ」の愛称で知られていた袴田真代というスターがいた。彼女は、昭和14年に宝塚映画の「山と少女」に出演している。
この人が一躍注目を浴びた一本の映画がある。昭和18年に製作された稲垣浩監督の「無法松の一生」で、坂東妻三郎を相手に、軍人の未亡人役を演じ、後世に残る名演を果たした園井恵子が袴田真代その人である。当時の批評家やファンから喝采を博した。しかし、彼女は昭和20年8月、軍の命令による移動演劇桜隊の舞台公演のため、丸山定夫と共に広島を訪れた。そして忌まわしい原爆と遭遇した。
彼女は被爆したあと必死の思いで神戸の友人宅までたどりついたが、同月21日帰らぬ人となった。33才の若さで散ったヒロインは誠に惜しまれてならない。
園井恵子が、明治39年に開校の歴史を持つ庁立小樽高等女学校(現桜陽高校)に通学していたことは、ごく一部の人だけにしか知られていないのでここに紹介したい。
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彼女は、大正2年に岩手県の松尾村で生まれ、地元の小学校を卒業のあと小樽へ来た。小樽には祖母と叔父がいたので、そこから庁立小樽高女へ通った。叔父は袴田多助と言う。当時入船町8~69で千歳屋という菓子店を営んでいた。(現在の入船4~12山手循環線の南湯付近)。
そのころの庁立小樽高女は、今の菁園中学校の位置にあった。近所の人や、店に来る人、あるいは通学路で女学生の彼女を見た人々から「きれいな娘だ」と評判であった。同姓の見る目も同様で「1年生にきれいな生徒がいる」と語られ、その清純な美しさは女学生のときから誉れ高かった。
しかし、彼女は庁立小樽高女を卒業していない。昭和2年に、宝塚音楽歌劇学校へ入学のため中退している。そして昭和5年、宝塚少女歌劇花組の男役で舞台にデビューした。
「無法松の一生」という映画は、戦前、戦後を通じ4本製作上映されている(次頁一覧)。私はこの4本の全作品を観ているが、園井恵子出演の作品が一番心に残っている。戦時のため内務省の検閲で、かなりカットされているにもかかわらず、今でもこの作品の評価は高い。
昭和52年の阪妻映画祭で、昭和18年の自作品を観た稲垣監督は「彼女のいきいきした美しい姿をみて、ボクは涙がとまらなかった」と語っている。
同じ監督で作られた昭和33年の「無法松の一生」では、園井恵子の実弟の袴だ康夫も出演しているが、彼もその後亡くなっている。
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平成4年小樽市文化祭映画会で、園井恵子が出演した「無法松の一生」が上映されたが、改めて彼女の気品ある姿を偲ぶことができた。
1本の映画で不朽の美しさを残した園井恵子は、いま、盛岡市愛岩町にある恩流寺の傍らの墓に眠っている。
平成元年、生まれ故郷である松尾村は村制百年を迎えた。その記念行事の一つとして、村は園井恵子の遺品と資料展を開催すると共に、「広島の原爆が奪った未完の大女優」という記念誌を刊行している。
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青春時代のひととき、園井恵子が庁立高女へ通った通学路は今も変っていない。私はその道筋を通るたびに「人に時あり」という言葉が浮かんでくる。
A 女優・園井恵子
B 園井恵子が通学していた当時の庁立小樽高等女学校
C 昭和18年製作「無法松の一生」に出演した園井恵子(中央)と坂東妻三郎
~HISTORY PLAZA 51
小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二
月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より
『歩いてみました。』
入舟4丁目~12はこの辺り
の前を通って
近道があったのかもしれません
この道を歩きたかったのです
去年何度か写した
こちらのお宅、以前は質屋さんだったそうです
向いが三角堂
通学していた
そば会席 小笠原
北海道小樽市桜2丁目17-4電話:0134-26-6471, 090-5959-6100
FAX:電話番号と同じ
E-mail:qqhx3xq9k@circus.ocn.ne.jp
営業時間:10:30~21:30
定休日:月曜日