あのころの山
2015年06月14日
拙著「小さないただき」の赤岩山小史に、社会人が岩登りをはじめたのは一九三四(昭和九年)と書いたが、この書のために古い書庫で資料を探しているとき、もっと早いことがわかった。リーダーの菅谷重二氏(以下、単にS)は、さらに二~三年前から赤黄のガレと摩天のガレを単独で上り、岩場を見つけザイルを用意して、一九三二(昭和七)年夏から宮沢唯幸、中島信次両君と三つの岩塔に、翌年私と伽賀三郎君が参加して、西壁などにも新しい岩場を求め岩登りがはじめられていた。 会則などないARCCと自称のメンバーはその後、山口文一、岡本留吉両君も参加して七名になっていた。いま思うに、幼稚な岩登りではあったが、そのころからよく本を買って読ませてくれた。坂部護郎編著「単独登攀者」ほか和書はもとよりウィンバーの「アルプス登攀史」、高須茂訳書・ジャンコストの「岩氷ランプ」など書名は忘れたが、マンメリーやトレンカ―などの訳書、中でもウィンスロープ・ヤング、町田立穂訳「登山の指導と監督」は、私よりも先輩Sに大きな影響力を与えた書であった。また北大生であった中島君が学校から山の原書を借りて来て見せてくれた。「登山とスキー」「山小屋」「ケルン」「山」「山と渓谷」などの雑誌が出ていて、私は「ケルン」を愛読した。いま全号揃っているのはこれだけである。当時はいまにくらべて、技術よりも心の方の記事が多かったのではないか、とさえ思われる。中でも、アルプス登頂の物語には強くひかれた。
北海道の山でさえ、日高山脈はいまのヒマラヤよりもゆける可能性のない山であったから、日帰りできる赤岩山に、小さな中の小さな岩塔や岩壁の頂を求めることは、初登攀気どりで若い頃の血を満足させてくれるに充分であった。
赤岩山には、私らに先だってすでに北大山岳部が、ベルギー岩や西壁などにいくつかのルートを開いていたことは周知のことである。私らARCCのメンバーは、はじめ三つの岩塔付近と西壁に集中していくつかのルートをつけ、何年か後に、東赤岩山夏道沿いの岩群にチムニー岩や後崩壊したクレポン周辺の岩群、さらに不動岩上部や海岸ミミズク岩や三段ルンゼなどの登攀をした。
当時休みがとれずに遠くにゆけぬことのほか、経済的なこともまた赤岩山へゆかしめたりゆうでもあったので、少し書き加えよう。
(つづく)
サスペンダ付ザックとソフトが愛用されたころである。
~非常なるアルバイトを要した登攀は、その直後に於て人を心から幸福にするものではない。やがて、その登攀が思い出となって蘇るとき、人は真の喜悦(よろこび)を味わう者なのである。(ジャンコスト)~山のアルバムより~
~一原有徳著 あのころの山~
先週の赤岩
たくさんの登攀者が。
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