明治・大正の小樽をみる(その4)~文化的土壌豊か 85
2015年06月09日
小樽には、第1から第3までの火防線があった。第1火防線は日銀の通りで、第2火防線は駅前通り、第3火防線は龍宮神社通りである。共に港に向かってタテの通りになっている。写真Aは、大正時代における第2火防線の通りである。この時代は建物も洋式化がみられるが、それなりの格調がある。
写真Bは明治時代の赤岩温泉である使用された絵はがきの写真で、郵便局の消印が明治42年となっているので、それ以前に撮影されたものである。
写真の前方が海なので、陸からも海からも行ける地の利にあて、賑わいをみせた。
1914年(大正3年)に発行された棟方虎夫著「小樽」には、赤岩について次のように述べている。『温泉あり小亭あり、清風この大海原を渡ってさざなみ磯に語る夕。ほしいままに涼を納(い)るべく 月明の夜舟をうかべて糸をたれ、潑溂る鮮鱗を割いて太白をくみ朗かに赤壁の賦を誦すれば、眞にこつえんとし羽宇化登仙の思ひあらしむる』
B 明治時代における赤岩温泉の全景(右は海岸)
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写真Cは、同じく小樽区の中心にあった常盤温泉である。現在のように保養施設の多い時代とは異なり、この頃の区民にとって、温泉は最大の憩いの場であったことであろう。
C 小樽区の中心にあった常盤温泉の全景
写真Dは、同じく明治時代に小樽区にあった金澤植物園である。この頃、稲穂町には稲穂博物館もあった。先月号でも記したが、この時代は経済と共に文化的土壌も豊かであったことを示すものとして評価したい。『栄え栄えよや小樽港 栄え栄えて発展の 限りは無かれいつまでも 後の世今しのぶ時 今の音を見る如し』これは1911年(明治44年)制定された小樽区歌(作詞芳賀矢一、作曲島崎赤太郎)の4番目の歌詞であるが、何故かいま浮かんでくる。
D 明治時代における金澤植物園
~小樽市史軟解 4
岩坂桂二
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