明治・大正の小樽をみる(その2)~ニシン 83
2017年02月21日
A 明治・大正時代のニシン番屋(小樽沿岸)
『海猫(ごめ)が鳴くからニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆がさわぐ
雪に埋れた番屋の隅で わたしゃ夜通し飯を炊く
あれからニシンはどこへ行ったやら 破れた網は問い刺し網か
今じゃ浜辺でオンボロロ オンボロボロロー
沖を通るは笠戸丸
わたしゃ涙でニシン曇りの空をみる』
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この「石狩挽歌」の作詞は、少年のころを小樽で過ごしたことのある“なかにし礼”である(作曲は浜圭介)
昔小樽は、3月といえばニシン漁で賑わったマチであった。天気の話をしても「今日はニシン曇りですね」ということばが交わされた。
越崎宗一著「鰊場史話」によると『鰊(ニシン)は鯡とも、あるいは春告魚とも書かれる。アイヌのヌーシィからきたと言われるが古い名はカドである。現在も秋田地方にはカドの名が残っている。カズノコは本当はカドノコなのだそうである。』と記しているが、春告魚といわれるだけあって、この3月なると雪があっても小樽の人々は春の喜びを感じたことであろう。
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小樽市街の中央を流れるオコバチ川(妙見川)以南をオタルナイ場所、以北は高島場所とその漁場を呼称していた。
現在の小樽築港構内もマツトマリといって漁舎が建ち並んでいた。
オタルナイ場所の産物は、最初はオタルナイ川の鮭であったらしいが、後になってニシン漁に着眼し、その漁獲に重点がおかれたという。ニシン漁の歴史は古く安政年間(1854~1859)から盛んであった。
1854年(安政元年)には高島場所で漁場が29ヶ所、1857年(安政4年)オタルナイ場所には266ヶ所の漁場があったという記録も残されている。(小樽市史第1巻)
小樽が商港としての地位を確立したのは明治20年代であったが、それでも漁業は重要な生業の一つに変りはなかった。
ニシンの漁獲高は、その年によって豊凶増減があった。1856年(安政3年)より9ヶ年間の平均漁獲高は4万556石であったが、1887年(明治20年)以降9年間の記録をみると漁獲高は減少している。 それでも1891年(明治24年)についてみると、専業、兼業を含め小樽・高島両郡を併せた全戸数5133戸のうち漁業関係の戸数は1115戸であった。
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小樽のニシン漁は戦後のある年、米軍が進駐していたころに大漁だったことがある。市民は小樽沿岸に押し寄せたニシンの大群をザルですくい揚げたものである。この折、私はアメリカ兵と一緒に熊碓海岸でニシンを獲り、米軍のパン工場(元海員養成所)の電子レンジで油焼きしたことを覚えている。
あれから40数年が過ぎた。北原ミレイが唄うあの「石狩挽歌」が聞えてくる。
B 明治・大正時代のニシン漁場と防寒の服装(小樽沿岸)
C 同じ頃の余市ニシン漁場と銀鱗の山
D 大正時代の高島水産試験場と弁天岩
小樽市史軟解 4
岩坂 桂二
月刊ラブおたるより
HISTORYPLAZA 83
『小樽ジャーナルによると、昨日、塩谷海岸で今年初めての群来がみられたとのこと。(小樽の海では、10年連続で。)』
早速向かいました 熊臼
大波のためいつもの浜にたどり着くことが出来ませんでした
『潮がニシンを連れてきてくれるかもしれないけど、私も連れていかれそう!これから満潮へ。』
そば会席 小笠原
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