はでな? (その2)
2023年04月21日
おらが町内人記 色内町の巻(その4)北海タイムス社より
○曲辰鈴木商店の小樽麦店が出来たのは明治四十年ころで大日本製糖株式会社の製品の販路拡張の為に小樽へ支店を設置してから五、六年のうちに本道の砂糖消費量の七割までは同店の取扱いとなり、樺太カムチャッカ方面へ輸出する食塩の九割までは同店の売りさばくところとなつた、旭日昇天の文字通り神戸から進出してきた曲辰鈴木の活躍は地元業者かを圧倒するかの観があつた、とくに派手な競争をしたのはサクラビールの買出しであつた、もともとビールは札幌ビールが本道におけるビールの独壇場で内地ビールの移入を阻止していた寒國向けビールはアルコール含有量の点で内地ものと自ら趣きを異にしていた、だから四十一年にキリン、カブトなどの関西方面のものが入荷しても太刀打出来ぬ状態であつたが、曲辰鈴木商店を背景にしてサクラビールが本道に登場して以来、サクラ、サッポロの華々しい販売戦が行われた
花見や観楓会にはビール会社の場幕が寄付される、広告と宣伝のためビアホールの直営所が出来る、各ビール共景品付き買出しで数年間は鐘や太鼓の宣傳で小売販売業者は踊る、市民は泡を喜ぶ、ビールは実に欧州戦後の小樽商品界の花形として忘れることの出来ないものの一つであつたがこれは曲辰鈴木のサクラビール買出しに刺激されてのげんしょうであつた、曲辰鈴木は本道への消費物資を提供すると同時に本道の青豌豆殆ど買占めて神戸の本店から盛んに輸出していた、開店当時の支店長は本道麦粉界の戸將札幌製粉株式会社専務取締役の志水寅次郎氏であつたが、後に坂本万吉さんが支配人となり盛んに小樽取引所で玉を動かしたものだ、殆んどが自分の名前も出さず店の名前も出さず買方の名前を伏せて仲買店の名義で青豌豆の買付けをしたものだが、昭和二年帝人事件にかかるモラトリアムの流行で台湾銀行のとりつけ、大手筋曲辰の沒落となつてさすがの鈴木商店も本道から轉退の予儀ない運命におちいつた、その後大成商事会社が曲辰の孤品を守って僅かに本道食品界に余命を保つていたが戦後この建物は松川嘉太郎さんの努力で北海道貿易会館に化けてしまつた、地階に食堂を持ち色内筋の銀行屋さんや商事会社の社員さんが昼休みの憩の場所となつている貿易会館はかつての地元小樽商人を相手に北海道の商業経済界に活躍した関西財閥鈴木辰五郎氏の未亡人よね子頭目にとつて北辺の基地であつた訳である
そこへ持ち主の方が。
『公道を走れるんですか?』
もう5・6年乗っていますよ
「初めはガソリンだったけど、、、。」
Hondaやヤマハのスクーターをもとにつくったようです。
あっという間に、走り去っていきました
~2015.3.16
そば会席 小笠原
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