仲仕の話~銃後を守った女仲仕
2015年03月07日
七 銃後を守った女仲仕
太平洋戦争もたけなわ、皆とも戦時色が強く感じられるころ、暁部隊が千島に転戦することになり、何万という兵卒が市内に民宿をしました。夜はお寺や神社を臨時の演芸場とし、長途の疲れをいやしたり、また、宿泊するところの家族が歓迎にひとときの安らぎを感じました。そんな中で、一夜のロマンに身をこがす娘もいたということです。翌朝、運河の埋立地は兵と戦車でいっぱいになり、秘密のうちに出航しました。しかし、そのうちの何隻かは、積丹沖に待機的していた敵潜水艦の魚雷を受け、海の藻屑(もくず)と消えたということです。
昭和二十年の夏にはグラマンという敵機が来襲しました。手宮公園と商大グランドには高射砲じんちがあり、そこからドンドンと大砲を撃ちますがなかなか当たりません。港では駆逐艦や海防艦からも撃ちまくりますが、やっと駆逐艦から撃った一発が命中し、煙をはきながら南防波堤灯台付近に落ちました。このような砲撃を市民は山の上で隠れて見ていました。
ところで、その防波堤のところに、ちょうど「雲のじゅうたん」に出てきたような二枚翼の水上飛行機が二機おり、毎日、爆音とともに飛び立って行きますが、市民はそれを「ゲタバキ」と呼んでいました。
「警戒警報発令」というラジオ放送と共に、このゲタバキは威勢よく飛び立ちますが、どこへ行ったのか皆目わかりませんでした。そして、解除と共に爆音を響かせてかえってくるのです。これには市民をあきれていました。きっとグラマンとゲタバキでは勝負にならないのでどこかへ逃げているのだろう、という話でした。
もう、このころになりますと学童は疎開していきます。大人達は戦争にかり出され、皆とも男ヒデリになりました。そんな時、手宮や高島の女性が仲仕として働きました。カスリのサシコに赤い湯もじをひざのところにちょっと見せ、薄化粧をしていました。そして、米俵を担いでいました。
小樽の銃後の守りは、このような手宮や高島を中心とした女性の労働力が立派にはたしましたが、戦地へ行ってしまったこれらの意中の人たちは、いったいどれくらい無事に帰ってきたのでしょうか。
堀 耕 郷土資料集 仲仕の話より
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